先日、東北大学の入試で、受験生に付き添う保護者が多すぎたために、当の受験生がバスに乗りきれず、入試の開始を遅らせたというニュースがあった。

■東北大2次試験、受験生がバス乗れず 原因は「付き添いの親」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/02/25/tohoku-university_n_4856061.html

大学入試に親が付き添い? 最初は我が耳を疑ったが、最近では珍しいことではないらしい。「いくらなんでも過保護では…」と思うが、その感覚は、あるいは今の世の中では多数派ではないのかもしれない。少なくとも、私自身が受験生だった20年以上前の感覚で、常識を語ることはできなさそうである。

東京大学の入学式には、受験生1人につき、2.5人の付き添いが来るとの話を聞いたことがある。両親が付き添っても「2人」だから、それ以上ということになる。学生によっては、両親のほかに兄弟姉妹や祖父母が付いてくるのだろうか。

親と子どもの精神的関わりは、私が子どもだった時代と比べても、はるかに濃密になっているのかもしれない。そういえば、ある新入社員が会社をやめるとき、親が辞表を持ってやって来た…なんて話すら聞いたことがある。

親に依存する子どもを批判しても、何も始まらない。問題は親側にある。子どもがいい歳になっても、過度の関わりを求め続け、手放そうとしなければ、子どもはいつまでたっても温室の中から抜け出せない。そして、その関係性は、決して幸福な未来を生み出さないように思う。

似たような話は、会社組織においても、感じることがある。自分が長く担当した仕事を手放せない人、手放したくない人が増えている。管理職になっても、部下にそれを任せず、現場業務に執着する人は多い。「仕事好き」「現場好き」といえば聞こえがよいが、上の人がいつまでも仕事を手放さずにいるから、下が育ってこないという弊害もある。

明治時代に活躍した志士たちの多くは、20~30代だった。彼らがその年齢にして、国を動かしていた事実は尊敬に値するが、当時の平均寿命が40代だったことを考えると、「自分たちがやるしかない」状況があったのだろう。今は平均寿命が80を越える時代。子どもがいつまでも子どもでいられる背景には、こうした人口構造もあるのだろう。

何事も「手放す」には、勇気がいる。大切にしてきた物、手塩にかけて育ててきた子ども、長く担当してきた仕事…。手放した後、どうなってしまうのかと不安になる気持ちは分かる。だが、時には後に託す人を信じ、手放してみる必要があるのではないか。自らへの戒めも含め、そんなことを感じてしまった。