私はテレビを見ない。週に平均、おそらく10分も見ない。テレビをつけるのは、お気に入りのスポーツが流れている時くらいで、バラエティやドラマの類は、一切といってもよいほど見ない。
なので、このテーマを論じる上で、少々浮世離れした話になるかもしれないが、その点はご容赦いただきたい。
「明日、ママがいない」というドラマをめぐって、「赤ちゃんポスト」を設置する熊本市の慈恵病院が、日本テレビに放映中止を求めたという。
ドラマの内容が「預けられた子どもを傷つけ、精神的な虐待、人権侵害になる」というのが、慈恵病院の主張であり、放送倫理・番組向上機構(BPO)に訴えることも検討しているそうなので、その憤りはかなり大きいのだろう。
テレビ番組の内容について「不適切だ」などの議論が出るたびに、私はよく「嫌なら見なけりゃいいのに」と思ってしまう。「テレビをつける」「チャンネルを合わせる」という二つの選択肢を取らなければ、そんな不快な思いをすることもない。
ただ、こうした騒動を見ても、テレビというメディアが、とてつもない影響力を持っていることを思い知らされる。これが、一出版社が出した書籍、漫画などであれば、こんな騒動になることはない。テレビだからこそ、その甚大な影響力を看過できないというのが、慈恵病院関係者の主張であろう。
「表現の自由」とは、果たして何なのか。原発に「賛成」という人間もいれば、「反対」という人間もいる。憲法9条改正にしても然り。多様な意見があり、各々が自由に主張すればよい。自民党を支持するチャンネルがあってもよいし、民主党を支持するチャンネルがあってもよい。はたまた、政治は無関心で、お笑い番組ばかり流すチャンネルがあってもよい。
事実、出版業界は、そうしたガラパゴス化の上に成り立っており、そうした価値観の多様化こそが、世論の絶妙なバランスを保っているようように思う。似たような論調の本ばかり並べば、思想統制が進んでしまう。
問題は、テレビが出版業界と違って、放送局数(視聴者から見る選択肢)が限られており、その影響力が絶大すぎるという点であろう。テレビ業界が、CS放送のようにガラパゴス化していれば、慈恵病院の関係者だって、さほど目くじらを立てなかったに違いない。
一つの番組が、それだけの影響力を及ぼしてしまうテレビ業界の構造、それこそが一番の問題なのだろうと思う。
なので、このテーマを論じる上で、少々浮世離れした話になるかもしれないが、その点はご容赦いただきたい。
「明日、ママがいない」というドラマをめぐって、「赤ちゃんポスト」を設置する熊本市の慈恵病院が、日本テレビに放映中止を求めたという。
ドラマの内容が「預けられた子どもを傷つけ、精神的な虐待、人権侵害になる」というのが、慈恵病院の主張であり、放送倫理・番組向上機構(BPO)に訴えることも検討しているそうなので、その憤りはかなり大きいのだろう。
テレビ番組の内容について「不適切だ」などの議論が出るたびに、私はよく「嫌なら見なけりゃいいのに」と思ってしまう。「テレビをつける」「チャンネルを合わせる」という二つの選択肢を取らなければ、そんな不快な思いをすることもない。
ただ、こうした騒動を見ても、テレビというメディアが、とてつもない影響力を持っていることを思い知らされる。これが、一出版社が出した書籍、漫画などであれば、こんな騒動になることはない。テレビだからこそ、その甚大な影響力を看過できないというのが、慈恵病院関係者の主張であろう。
「表現の自由」とは、果たして何なのか。原発に「賛成」という人間もいれば、「反対」という人間もいる。憲法9条改正にしても然り。多様な意見があり、各々が自由に主張すればよい。自民党を支持するチャンネルがあってもよいし、民主党を支持するチャンネルがあってもよい。はたまた、政治は無関心で、お笑い番組ばかり流すチャンネルがあってもよい。
事実、出版業界は、そうしたガラパゴス化の上に成り立っており、そうした価値観の多様化こそが、世論の絶妙なバランスを保っているようように思う。似たような論調の本ばかり並べば、思想統制が進んでしまう。
問題は、テレビが出版業界と違って、放送局数(視聴者から見る選択肢)が限られており、その影響力が絶大すぎるという点であろう。テレビ業界が、CS放送のようにガラパゴス化していれば、慈恵病院の関係者だって、さほど目くじらを立てなかったに違いない。
一つの番組が、それだけの影響力を及ぼしてしまうテレビ業界の構造、それこそが一番の問題なのだろうと思う。