実家のある大津市が大変なことになっています。

この問題については思うことが多々あるのですが、頭の中が整理し切れていなかったので、TwitterでもFacebookでも、何も語らずに来ました。

ただ、事件が騒がれ出してから、一定の期間が経ち、状況もだいぶ整理されてきたように思うので、このへんで思いの丈を語らせていただこうと思います。

まず、この問題を隠蔽しようとした学校、教育委員会には、ウンザリさせられます。

人間は結局、自分の身を守ることしか考えられない生き物なのでしょうか。何十年も歳を重ねた大の大人たちの言葉の節々に、正義感の微塵も感じられないのは、悲しい限りです。

実を言うと、やり玉に上がっている教育長は、私が中学生だった時、その学校に教師として在籍していました。授業を受けたこともあります。

教師としての評判はすこぶる良く、生徒や保護者の信頼も厚い、良い先生でした。

ただ、もう30年近くも前の話です。長い歳月が人を変えてしまったかもしれませんし、多くの人が一面だけを見て、好印象を抱いていたのかもしれません。

批判の矛先は、教育委員会や学校、会見に出てくる教育長や校長に向いています。そして、どこか歯切れの悪い返答に、マスコミや世間が集中砲火を浴びせています。

私自身も、教育長と校長の会見の様子をテレビで見ました。きっと、大切な遺族が見たら、はらわたが煮えくり返るほどに、怒りを覚えることでしょう。

でも、本当に悪いのは誰でしょうか。責任を取ろうとしない教育委員会や学校に、非がないわけではありません。学校がもう少し、組織として機能していれば、いじめを早期に発見し、自殺を防げた可能性もあります。

ただ、彼を殺したのは、まぎれもなく加害生徒たちです。連日報道が加熱する中で、多くの人達がその事実を置き去りにしているような気がしてなりません。

被害生徒を死に追いやったのは誰か、「いじめ」という名の犯罪行為に手を染めたのは誰かという本質的な部分を、私たちはもっと直視すべきだと思うのです。

もちろん、未成年のしたことですから、責任能力をめぐる議論もあることでしょう。でも、もし13~14歳の彼らに「責任を負わせられない」という理屈がまかり通るなら、その責任はすべて保護者である両親が負い、罪を償うべきではないでしょうか。

最近は、何か問題が起こると、つい「組織の問題」に、話がすり替えられてしまうように思います。もちろん、組織風土が生み出す、不祥事やトラブルも部分もあるでしょう。

でも、最終的には一人ひとりの「個人」が、しっかりと自己の言動に責任を持たねばならないと思うのです。何事も組織のせいにする風潮こそが、個人を身勝手な行動に走らせている一因ではないか。そんな風にさえ思ってしまいます。

今回の事件を受けて、私たちはまず、自己を振り返るべきだと思います。そして、いじめという犯罪行為に加担しないこと、身近な所でそうした行為があれば、勇気を持ってそれを食い止めようとすることです。

これは何も学校や子どもに限った話ではありません。私たち大人社会の中にも、似たような話はたくさんあります。子どもはそうした大人の背中を見て育つのです。

私だって、気づかないうちに他人に嫌な思いをさせている可能性があります。まずは、自身が身を正すこと、そして誠意や愛情を持って他人と交わることです。

それが今回の事件が与えてくれる、最終的な「解」だと私は思うのです。