地震から1週間がすぎて
東日本大震災からちょうど一週間が経ちました。
この間、あまりにもたくさんのことがあって、ろくにブログの更新もできていませんでした。何はともあれ、この度の震災で被災された方々には、心よりお見舞い申し上げます。
この1週間のことを思い出しながら綴らせていただきます。
【3月11日】
明日の事務所移転を前に、荷造りをしている途中、少し遅目の昼ごはんを食べようかと事務所を出たところで、地震発生。
今まで体験したことがない大きな揺れで、ふと事務所の入った建物を見上げると、ものすごい勢いで揺れまくっていました。
中にはスタッフの他に、黒木氏、蔵谷氏などがいたので、「崩れないでくれ・・・」と祈っておりました。
揺れが収まったところで、事務所のメンバーに建物の外へ出るよう指示。周囲からは「宮城で震度7!」「津波警報が出ている!」などの声が聞こえてきました。
すぐ妻に電話をしてみましたが、すでに回線が混み合って不通。
ひとまず、事務所のメンバーとともに近くの公園に避難・・・と、その途中で再び大きな揺れ。公園に行くと、すでに多くの人達が、避難してきていました。

その後、何とか妻と連絡が取れて、無事を確認し、ほっと一息。
続いて、両親にも連絡をして無事を報告。
そのころ、東北地方の太平洋岸を巨大津波が襲い、大被害が出ていることを知りました。
その後、揺れが収束したところで、再び事務所へ。
テレビから「緊急地震速報」が流れるたびに建物の外へ。
何とも落ち着かない一日でした。
その後、事務所まで歩いてきてくれた妻と共に、歩いて帰宅の途に。
幸い、都営大江戸線が動いていたので、自宅から一駅隣の蔵前までは電車で帰ることができました。
【3月12日】
この日は、朝から事務所移転の準備で、飯田橋へ。
総武線はかろうじて動いていたものの、本数が少なく、到着するのに普段の倍はかかってしまいました。
事務所に着いてテレビを見ると、津波の目を覆いたくなるような惨状が映しだされています。
私は仙台に叔母夫婦が、そして石巻に叔父夫婦が住んでいます。その安否が不明で、この日も幾度となく災害伝言ダイヤルなどを使ったものの、連絡はつかず。
そのことばかりが気になって、何事も手につかない一日でした。
【3月13日】
事務所の移転作業を進める中、母親から連絡が入り「仙台の叔母夫婦と連絡が取れて、無事だった」とのこと。ほっと一息したものの、いまだ石巻の叔父夫婦とは連絡がつかず。
夕方に移転は完了したものの、地震の影響でNTTの設置部隊が新事務所に来ることができず。当面はネットと電話が使えないという、会社としては最悪の事態になってしまいました。
【3月14日】
この日は、朝から仕事で東洋インキ製造へ。16・17日に予定していた案件をキャンセルすることで合意。その後、日本漢字能力検定協会からも連絡があり、16日午前の予定がキャンセル。
結局、すべての仕事が来週以降にずれ込むことになりました。計画停電などの影響で、ろくに出勤もできないような状況の中、仕方がないことです。総武線は完全にストップしていました。

山手線でぐるりと回って高田馬場の事務所に戻ってきたところで、ニュースを見ると、原発が非常に深刻な状況になっていることが報道されていました。これは、あるいはとんでもないことになるのでは・・・そんな予感めいた悪寒が全身を走りました。
と、その時、母親から電話。なんと、石巻の叔父夫婦も無事であることが判明!
港で仕事をしていた叔父は、津波警報を聞いていち早く車で自宅へ戻り、そこで水が押し寄せてきたことから叔母と二人で2階に逃げ、かろうじて流されずに済んだそうです。
九死に一生とは、このことでしょう。1階は、柱を除いてすべて流され、自動車も遠くへ流れ去ってしまったそうです。
【3月15日】
朝、妻の兄から連絡が入り、「原発が危ういので西へ逃げた方がよい」とのこと。妻と相談の上、幸い仕事のアポイントがなかったこともあり、この日のうちに妻の実家である舞鶴へ行くことに。
お気に入りのぬいぐるみに放射能除けのマスクをかけて、急いで東京駅へ。
東京駅の新幹線チケット売り場は、同じように「一時避難」をする人で、長蛇の列が出来ていました。
舞鶴では、妻の両親が迎えてくれて、テレビを見ながら食事。被災地の過酷な状況が目に入り、暖かい場所で食事を取ることに、罪悪感を覚えてしまうほどでした。
【3月16日】
この日、東京に帰ろうと思っていたものの、原発がまだ深刻なことから、妻の勧めもあって、もう一日舞鶴にいることに。取引先と携帯電話とメールで連絡を取りながら、妻の父の仕事場のパソコンを借りて、仕事をする一日でした。
【3月17日】
原発の状況は相変わらず一進一退。とはいえ、いつまでも仕事を放って関西にいるわけにはいきません。妻を舞鶴に残し、私一人だけ東京へ戻ることに。
途中、新幹線から見えた富士山の美しさが、不思議なくらいに神々しく、物悲しく感じられました。

夕方以降、今月末に納品しなければならない印刷物について、印刷所と連絡と取ると、なんと紙の調達ができないとのことで、ピンチに!
紆余曲折を経て、何とか関西にある小さな印刷会社に頼み込んで、間に合わせてもらうことに。もう、薄氷を踏む思いです。
夜、事務所に行くと、黒木氏と再会。わずか5日ぶりでしたが、多くの出来事があっただけに、仲間の温かい笑顔になんとも言えない安堵感を覚えました。結局、この日は深夜まで仕事をして、帰宅。コンビニによると「噂通り」、棚には何も並んでいませんでした。

【3月18日】
朝からNTT工事の関係で、飯田橋(旧事務所)と高田馬場(新事務所)の間を行ったり来たり。工事は夕方に終わり、ようやく電話とインターネット、メールが開通。ようやく、仕事が出来る体制が整いました。
そんなこんなで、ようやく今、ブログを更新しているわけですが、本当にさまざまなことを経験し、考え、感じた一週間でした。
ほんの数分前まで、普通に生活し、笑っていた人の命が、わずか数分で奪われてしまう現実。
それが人の命というものなのか・・・。そう考えると、生きていることそのものが「奇跡」のように思えてきます。
今も、被災地では多くの人々が、「寒さ」や「空腹」、そして「悲しみ」と戦っています。
東北は、私にとって第二の故郷です。少しでも多くの人々の命が救われ、被災地の方々元気を取り戻すために、何ができるんだろう。
何か「行動」を起こさねば。
東日本大震災からちょうど一週間が経ちました。
この間、あまりにもたくさんのことがあって、ろくにブログの更新もできていませんでした。何はともあれ、この度の震災で被災された方々には、心よりお見舞い申し上げます。
この1週間のことを思い出しながら綴らせていただきます。
【3月11日】
明日の事務所移転を前に、荷造りをしている途中、少し遅目の昼ごはんを食べようかと事務所を出たところで、地震発生。
今まで体験したことがない大きな揺れで、ふと事務所の入った建物を見上げると、ものすごい勢いで揺れまくっていました。
中にはスタッフの他に、黒木氏、蔵谷氏などがいたので、「崩れないでくれ・・・」と祈っておりました。
揺れが収まったところで、事務所のメンバーに建物の外へ出るよう指示。周囲からは「宮城で震度7!」「津波警報が出ている!」などの声が聞こえてきました。
すぐ妻に電話をしてみましたが、すでに回線が混み合って不通。
ひとまず、事務所のメンバーとともに近くの公園に避難・・・と、その途中で再び大きな揺れ。公園に行くと、すでに多くの人達が、避難してきていました。

その後、何とか妻と連絡が取れて、無事を確認し、ほっと一息。
続いて、両親にも連絡をして無事を報告。
そのころ、東北地方の太平洋岸を巨大津波が襲い、大被害が出ていることを知りました。
その後、揺れが収束したところで、再び事務所へ。
テレビから「緊急地震速報」が流れるたびに建物の外へ。
何とも落ち着かない一日でした。
その後、事務所まで歩いてきてくれた妻と共に、歩いて帰宅の途に。
幸い、都営大江戸線が動いていたので、自宅から一駅隣の蔵前までは電車で帰ることができました。
【3月12日】
この日は、朝から事務所移転の準備で、飯田橋へ。
総武線はかろうじて動いていたものの、本数が少なく、到着するのに普段の倍はかかってしまいました。
事務所に着いてテレビを見ると、津波の目を覆いたくなるような惨状が映しだされています。
私は仙台に叔母夫婦が、そして石巻に叔父夫婦が住んでいます。その安否が不明で、この日も幾度となく災害伝言ダイヤルなどを使ったものの、連絡はつかず。
そのことばかりが気になって、何事も手につかない一日でした。
【3月13日】
事務所の移転作業を進める中、母親から連絡が入り「仙台の叔母夫婦と連絡が取れて、無事だった」とのこと。ほっと一息したものの、いまだ石巻の叔父夫婦とは連絡がつかず。
夕方に移転は完了したものの、地震の影響でNTTの設置部隊が新事務所に来ることができず。当面はネットと電話が使えないという、会社としては最悪の事態になってしまいました。
【3月14日】
この日は、朝から仕事で東洋インキ製造へ。16・17日に予定していた案件をキャンセルすることで合意。その後、日本漢字能力検定協会からも連絡があり、16日午前の予定がキャンセル。
結局、すべての仕事が来週以降にずれ込むことになりました。計画停電などの影響で、ろくに出勤もできないような状況の中、仕方がないことです。総武線は完全にストップしていました。

山手線でぐるりと回って高田馬場の事務所に戻ってきたところで、ニュースを見ると、原発が非常に深刻な状況になっていることが報道されていました。これは、あるいはとんでもないことになるのでは・・・そんな予感めいた悪寒が全身を走りました。
と、その時、母親から電話。なんと、石巻の叔父夫婦も無事であることが判明!
港で仕事をしていた叔父は、津波警報を聞いていち早く車で自宅へ戻り、そこで水が押し寄せてきたことから叔母と二人で2階に逃げ、かろうじて流されずに済んだそうです。
九死に一生とは、このことでしょう。1階は、柱を除いてすべて流され、自動車も遠くへ流れ去ってしまったそうです。
【3月15日】
朝、妻の兄から連絡が入り、「原発が危ういので西へ逃げた方がよい」とのこと。妻と相談の上、幸い仕事のアポイントがなかったこともあり、この日のうちに妻の実家である舞鶴へ行くことに。
お気に入りのぬいぐるみに放射能除けのマスクをかけて、急いで東京駅へ。
東京駅の新幹線チケット売り場は、同じように「一時避難」をする人で、長蛇の列が出来ていました。
舞鶴では、妻の両親が迎えてくれて、テレビを見ながら食事。被災地の過酷な状況が目に入り、暖かい場所で食事を取ることに、罪悪感を覚えてしまうほどでした。
【3月16日】
この日、東京に帰ろうと思っていたものの、原発がまだ深刻なことから、妻の勧めもあって、もう一日舞鶴にいることに。取引先と携帯電話とメールで連絡を取りながら、妻の父の仕事場のパソコンを借りて、仕事をする一日でした。
【3月17日】
原発の状況は相変わらず一進一退。とはいえ、いつまでも仕事を放って関西にいるわけにはいきません。妻を舞鶴に残し、私一人だけ東京へ戻ることに。
途中、新幹線から見えた富士山の美しさが、不思議なくらいに神々しく、物悲しく感じられました。

夕方以降、今月末に納品しなければならない印刷物について、印刷所と連絡と取ると、なんと紙の調達ができないとのことで、ピンチに!
紆余曲折を経て、何とか関西にある小さな印刷会社に頼み込んで、間に合わせてもらうことに。もう、薄氷を踏む思いです。
夜、事務所に行くと、黒木氏と再会。わずか5日ぶりでしたが、多くの出来事があっただけに、仲間の温かい笑顔になんとも言えない安堵感を覚えました。結局、この日は深夜まで仕事をして、帰宅。コンビニによると「噂通り」、棚には何も並んでいませんでした。

【3月18日】
朝からNTT工事の関係で、飯田橋(旧事務所)と高田馬場(新事務所)の間を行ったり来たり。工事は夕方に終わり、ようやく電話とインターネット、メールが開通。ようやく、仕事が出来る体制が整いました。
そんなこんなで、ようやく今、ブログを更新しているわけですが、本当にさまざまなことを経験し、考え、感じた一週間でした。
ほんの数分前まで、普通に生活し、笑っていた人の命が、わずか数分で奪われてしまう現実。
それが人の命というものなのか・・・。そう考えると、生きていることそのものが「奇跡」のように思えてきます。
今も、被災地では多くの人々が、「寒さ」や「空腹」、そして「悲しみ」と戦っています。
東北は、私にとって第二の故郷です。少しでも多くの人々の命が救われ、被災地の方々元気を取り戻すために、何ができるんだろう。
何か「行動」を起こさねば。