相撲界が八百長騒動で揺れている。
少し前まで「八百長疑惑」であったが、証拠が出てきたことから「疑惑」ではなく「騒動」「事件」になった。真剣勝負として見せてきたスポーツが、実はその一部が「芝居」であったというのだから、ファンに対する裏切りという他ない。相撲を長年、こよなく愛し観戦してきた人からすれば、腹立たしいことこの上ないであろう。
相撲の八百長疑惑は、今に始まったことではない。もう、かれこれ20年くらい、言われてきたことだ。私が初めてその話を耳にしたのは、大学生のころ。もう20年近く前の話である。
以来、多くのジャーナリストや関係者が「相撲は八百長をしている」と主張してきたが、岩が動くことはなかった。おそらく、国技という巨大組織が、一枚岩となって、はねのけ続けてきたのだろう。
今回、相撲取り個人の携帯メールという、組織とはまったく異なるルートから情報が漏れたことで、事態が明るみとなった。いわば、表玄関に鉄の門を構え、何十人もの警備員を配置していたのに、塀に小さな穴があって、侵入を許してしまったようなものといえよう。
誤解を恐れずに言えば、相撲の一部にショー的要素があることは、多くの人が周知の上で、相撲を見ていたんじゃないかと思う。言ってみれば、ドキュメント映画を観るかのようなもの。どこまで事実で、どこまで創作かは分からないが、全体としては面白い。それなら、細かなディテールはさほど気にせず、そのストーリーを楽しもうではないか。そんな気持ちで見れば、相撲だって相応に楽しいかもしれない。
もちろん、金を払って観戦しているのだから、人を騙していることに変わりはない。加えて、そんな「真剣勝負」がなされないからこそ、相撲は外国人力士をヒール扱いして、スキャンダラスに盛り上げるくらいしか、客を呼べないのであろう。
以前、けがをして休場する力士が多発する中で、「稽古不足」や「プロ意識の欠如」などを指摘した評論家がいるが、あれだけの巨漢がぶつかり合えば、けがをしない方がおかしい。
また、負けが続く横綱や「かど番」が続く大関を、「自覚が足りない」とこき下ろす人もいるが、毎度横綱や大関ばかりが勝ち続けるのは、むしろ不自然とは言えないだろうか。個人競技と団体競技では異なるかもしれないが、プロ野球の優勝チームの勝率は、せいぜい6割程度である。
問題は、八百長をした力士の「処分」をどうするかである。野球賭博で琴光喜がクビになったことを考えれば、同様にクビは免れないであろう。
しかし、一つ心配事がある。これを徹底的に調べたら、実は八百長を「したことがない力士」(最近、これを「ガチンコ力士」というらしい。笑)の方が少数で、大半の力士が「クビ」となり、相撲の興業が成り立たなくなってしまう可能性が少なからずあるのだ。
それこそ、政治家の秘書給与問題もそうだったし、進学校の単位未履修問題もそうだったが、すべての膿を徹底的に洗い出そうとすると、「そして誰もいなくなった」状態に陥ってしまいかねない。
だから結局のところ、適当な落とし所を見つけて、玉虫色の決着とするのが通例なのだが、相撲界はどうなるのだろうか。八百長をした関取を一掃し、「ガチンコ力士」だけで再スタートを切るなんてことが、果たしてできるのだろうか。
政治家や高等学校とは違い、相撲取りがいなくても、世の中は十分に成立する。膿を出し切って、興行形態も変えて、新たな近代相撲として再スタートを切るのも、決して悪くないのかもしれない。
少し前まで「八百長疑惑」であったが、証拠が出てきたことから「疑惑」ではなく「騒動」「事件」になった。真剣勝負として見せてきたスポーツが、実はその一部が「芝居」であったというのだから、ファンに対する裏切りという他ない。相撲を長年、こよなく愛し観戦してきた人からすれば、腹立たしいことこの上ないであろう。
相撲の八百長疑惑は、今に始まったことではない。もう、かれこれ20年くらい、言われてきたことだ。私が初めてその話を耳にしたのは、大学生のころ。もう20年近く前の話である。
以来、多くのジャーナリストや関係者が「相撲は八百長をしている」と主張してきたが、岩が動くことはなかった。おそらく、国技という巨大組織が、一枚岩となって、はねのけ続けてきたのだろう。
今回、相撲取り個人の携帯メールという、組織とはまったく異なるルートから情報が漏れたことで、事態が明るみとなった。いわば、表玄関に鉄の門を構え、何十人もの警備員を配置していたのに、塀に小さな穴があって、侵入を許してしまったようなものといえよう。
誤解を恐れずに言えば、相撲の一部にショー的要素があることは、多くの人が周知の上で、相撲を見ていたんじゃないかと思う。言ってみれば、ドキュメント映画を観るかのようなもの。どこまで事実で、どこまで創作かは分からないが、全体としては面白い。それなら、細かなディテールはさほど気にせず、そのストーリーを楽しもうではないか。そんな気持ちで見れば、相撲だって相応に楽しいかもしれない。
もちろん、金を払って観戦しているのだから、人を騙していることに変わりはない。加えて、そんな「真剣勝負」がなされないからこそ、相撲は外国人力士をヒール扱いして、スキャンダラスに盛り上げるくらいしか、客を呼べないのであろう。
以前、けがをして休場する力士が多発する中で、「稽古不足」や「プロ意識の欠如」などを指摘した評論家がいるが、あれだけの巨漢がぶつかり合えば、けがをしない方がおかしい。
また、負けが続く横綱や「かど番」が続く大関を、「自覚が足りない」とこき下ろす人もいるが、毎度横綱や大関ばかりが勝ち続けるのは、むしろ不自然とは言えないだろうか。個人競技と団体競技では異なるかもしれないが、プロ野球の優勝チームの勝率は、せいぜい6割程度である。
問題は、八百長をした力士の「処分」をどうするかである。野球賭博で琴光喜がクビになったことを考えれば、同様にクビは免れないであろう。
しかし、一つ心配事がある。これを徹底的に調べたら、実は八百長を「したことがない力士」(最近、これを「ガチンコ力士」というらしい。笑)の方が少数で、大半の力士が「クビ」となり、相撲の興業が成り立たなくなってしまう可能性が少なからずあるのだ。
それこそ、政治家の秘書給与問題もそうだったし、進学校の単位未履修問題もそうだったが、すべての膿を徹底的に洗い出そうとすると、「そして誰もいなくなった」状態に陥ってしまいかねない。
だから結局のところ、適当な落とし所を見つけて、玉虫色の決着とするのが通例なのだが、相撲界はどうなるのだろうか。八百長をした関取を一掃し、「ガチンコ力士」だけで再スタートを切るなんてことが、果たしてできるのだろうか。
政治家や高等学校とは違い、相撲取りがいなくても、世の中は十分に成立する。膿を出し切って、興行形態も変えて、新たな近代相撲として再スタートを切るのも、決して悪くないのかもしれない。