妻は絵を描く人なのですが、先日、「ずっと一つの作品に没頭していると、その絵のことがよく分からなくなってしまうことがある」と言っていました。いかにもアーティストらしい言葉だなと思いますが、自分が制作しているものゆえに、客観的な姿が見えなくなってしまうことは、私の仕事においても少なくありません。

特に文章においては、自分で良かれと思って書いていることが、他人にはまったく理解できないことになっていることが少なくありません。例えば「その手続きは教育委員会で行う必要がある」という文章を書いたとして、本人の中では何の疑問が無かったとしても、第三者が目を通したときに「県の教育委員会?それとも市?」という疑問がわくかもしれませんし、「役所のこと?それとも5人の委員会のこと?」という疑問を持つかもしれません。

それだけに、文章は必ず第三者の目を通すことが大切です。これは、うちの会社のような、どちらかといえば説明文を各会社に限らず、小説などの文学作品においても、共通することだと思います。「自分の作品だから誰にも手を入れられたくない」という気持ちは分からなくありませんが、少しでも良いものを作ろうという確固たる意思があるのであれば、他人の目を受け入れる包容力は持ち合わせていたいところです。

もう10年くらい前ですが、北九州にある「松本清張記念館」に行ったとき、彼の原文にビッシリと赤字修正が加えられた原稿用紙を見て、驚いたことがあります。その赤字修正は、彼の編集担当者が入れたもの。かの文豪に対してですら、躊躇することなく意見を述べる編集者の姿勢に強い感銘を受けました。編集者がそうした強い気持ちを持ち、松本清張がそれを受け入れる懐の広さを持っていたからこそ、名作は生まれたのでしょう。

もちろん、その編集者が松本清張より優れた文章力を持っていたというわけではありません。それでも、ある程度の見識を持った「第三者」による目が入ることで、作品のクオリティは間違いなく高まります。これは、スポーツ選手においても言えることで、イチローのような前人未到の実績を持った選手でも、第三者の目による客観的な指導を得ているからこそ、優れた成績を残し続けられるのだと思います。

学校の先生と児童生徒の関係は少し違うかもしれませんが、大切なのは子どもが素直に教師や親の言うことを聞けるような素地、謙虚な姿勢を持つことではないでしょうか。よく「日本の子どもは自己肯定感が低い」というデータを懸念する人がいますが、これが「他人への敬意」の土台となっているようなら、あながち悲観すべき問題ではないのかもしれません。