大学の教育学部に入学して以降、かれこれ20年以上、「教育」のことを考え続けてきました。そんな中、一貫して変わらずに「抱き続けている思い」と、一方で少しづつ「変化してきた思い」とがあります。
「抱き続けている思い」とは、詰め込み主義的な教育への批判であり、価値の多様化に対する教育の対応であり、学歴重視社会からキャリア重視社会への転換です。
難しい言葉を並べてしまいましたが、要は一人ひとりがもっと自分らしく生きられる社会になる、そんな教育制度の構築に寄与したいとの思いです。
一方で、「変化してきた思い」の一つが、基礎学力に対する認識です。その昔、私は「反復練習」の積み重ねに対し、「詰め込み主義」の延長であるとして、やや否定的な考えを持っていました。
そんなつまらないことを押し付けずとも、学びたいことを自主的に学ばせれば、子どもはぐんぐん成長する。そんな考えを持っていましたが、最近は詰め込んででも「基礎」を築くことの大切さを痛感します。
以前、ある企業の社長さんにインタビューした時、「算数」の大切さを力説していました。営業職であろうと、技術職であろうと、確かな計算力を持っていることで、「原価」を意識して行動できる。そんな潜在意識が個々人のバックグラウンドにあるからこそ、会社は維持経営できるのだと、その社長さんはおっしゃっていました。
なるほど、話を家計に置き換えても、国民一人ひとりが確かな計算力を持っていれば、借金まみれになって自己破産する人は、もっと減るかもしれません。もちろん、中には計算力があっても自暴自棄になって破滅的行動をする人もいるでしょうが、バックグラウンドでもう少し冷静に計算力を持ちあわせていれば、それは少し身の丈にあった行動を促すことだってできるでしょう。
コミュニケーション力の基礎となる国語力も、同様です。これが不足しているが故に、誤解が誤解を呼び、仕事に支障を来すなんてケースは、私の身の回りにも山のようにあります。スポーツ選手も、基礎をないがしろにして一流になれた人の話なんて、聞いたことがありません。
一方で、基礎の詰め込みは肯定しても、やはり多くの人が「暗記」や「丸覚え」で勝負する、高校・大学受験を肯定する気にはなれません。すぐに忘れてしまうような知識を詰め込むくらいなら、もっと別なことのために頭のハードディスクを空けておいた方が有意義でしょう。
「抱き続けている思い」とは、詰め込み主義的な教育への批判であり、価値の多様化に対する教育の対応であり、学歴重視社会からキャリア重視社会への転換です。
難しい言葉を並べてしまいましたが、要は一人ひとりがもっと自分らしく生きられる社会になる、そんな教育制度の構築に寄与したいとの思いです。
一方で、「変化してきた思い」の一つが、基礎学力に対する認識です。その昔、私は「反復練習」の積み重ねに対し、「詰め込み主義」の延長であるとして、やや否定的な考えを持っていました。
そんなつまらないことを押し付けずとも、学びたいことを自主的に学ばせれば、子どもはぐんぐん成長する。そんな考えを持っていましたが、最近は詰め込んででも「基礎」を築くことの大切さを痛感します。
以前、ある企業の社長さんにインタビューした時、「算数」の大切さを力説していました。営業職であろうと、技術職であろうと、確かな計算力を持っていることで、「原価」を意識して行動できる。そんな潜在意識が個々人のバックグラウンドにあるからこそ、会社は維持経営できるのだと、その社長さんはおっしゃっていました。
なるほど、話を家計に置き換えても、国民一人ひとりが確かな計算力を持っていれば、借金まみれになって自己破産する人は、もっと減るかもしれません。もちろん、中には計算力があっても自暴自棄になって破滅的行動をする人もいるでしょうが、バックグラウンドでもう少し冷静に計算力を持ちあわせていれば、それは少し身の丈にあった行動を促すことだってできるでしょう。
コミュニケーション力の基礎となる国語力も、同様です。これが不足しているが故に、誤解が誤解を呼び、仕事に支障を来すなんてケースは、私の身の回りにも山のようにあります。スポーツ選手も、基礎をないがしろにして一流になれた人の話なんて、聞いたことがありません。
一方で、基礎の詰め込みは肯定しても、やはり多くの人が「暗記」や「丸覚え」で勝負する、高校・大学受験を肯定する気にはなれません。すぐに忘れてしまうような知識を詰め込むくらいなら、もっと別なことのために頭のハードディスクを空けておいた方が有意義でしょう。