4年ほど前から、空気が読めない人のことを指す「KY」なる語が、色々な場面で使われるようになりました。「使われるようになった」とはいえ、実際には雑談の中で冗談半分に使われる程度で、一般化した日本語とは到底言えません。恐らく、どの国語辞典にも掲載されてはいないでしょう。
この言葉が流行り始めた直後から、KYな文化、すなわち「空気を読もうとする文化」に対する批判も、あちこちでされるようになりました。
日本人は空気ばかりを読もうとするから自己主張ができない
「空気を読め」というのは、自己主張できない人間の甘え
そんな声が、聞こえてきます。
確かに、自己主張をすることは大切です。例えば、会議の場で皆が「A案で行こう」とまとまりかけている中、その空気を読まずに「私はB案がいいと思う」と主張できれば、それは素晴らしいことだと思います。
しかし一方で、「空気を読む」ことのすべてが否定されるべきではないと私は思います。
例えばサッカーで、周囲の状況を無視し、仲間とコミュニケーションをとらずに個人プレーに走れば、チームは崩壊します。これは、職場においても同じで、個人プレーが許される場面と許されない場面とがあり、周囲の状況を読まずに自分勝手に物事を進めれば、周囲に迷惑をかけ、そのツケは自分にも回ってきます。
すなわち、職場においては常に「空気を読むセンス」が求められるのです。さらに言えば、その空気をしっかりと読みきった上で、冷静に自己を主張するのが理想ではないでしょうか。
「KY」という言葉が生まれ、空気を読めない人がバカにされたかと思えば、今度は空気を読もうとする人がこき下ろされる。
そんな風に、日本社会は論調が右へ行ったり、左へ行ったりしているように感じます。あまり、そうした風潮に振り回されず、冷静にならんといかんなぁと感じる今日このごろです。
この言葉が流行り始めた直後から、KYな文化、すなわち「空気を読もうとする文化」に対する批判も、あちこちでされるようになりました。
日本人は空気ばかりを読もうとするから自己主張ができない
「空気を読め」というのは、自己主張できない人間の甘え
そんな声が、聞こえてきます。
確かに、自己主張をすることは大切です。例えば、会議の場で皆が「A案で行こう」とまとまりかけている中、その空気を読まずに「私はB案がいいと思う」と主張できれば、それは素晴らしいことだと思います。
しかし一方で、「空気を読む」ことのすべてが否定されるべきではないと私は思います。
例えばサッカーで、周囲の状況を無視し、仲間とコミュニケーションをとらずに個人プレーに走れば、チームは崩壊します。これは、職場においても同じで、個人プレーが許される場面と許されない場面とがあり、周囲の状況を読まずに自分勝手に物事を進めれば、周囲に迷惑をかけ、そのツケは自分にも回ってきます。
すなわち、職場においては常に「空気を読むセンス」が求められるのです。さらに言えば、その空気をしっかりと読みきった上で、冷静に自己を主張するのが理想ではないでしょうか。
「KY」という言葉が生まれ、空気を読めない人がバカにされたかと思えば、今度は空気を読もうとする人がこき下ろされる。
そんな風に、日本社会は論調が右へ行ったり、左へ行ったりしているように感じます。あまり、そうした風潮に振り回されず、冷静にならんといかんなぁと感じる今日このごろです。