昨日、「分かりやすい文章」について記事を書きましたが、この法則が必ずしも当てはまるとは限りません。特定の分野においては、文と文を理路整然と、論理的につなげないことにより、かえって物事の「本質」を伝えられることもあるでしょう。
「特定の分野」とは、たとえば「詩」がそうです。
実を言うと、私は「詩」が苦手です。書くこともできなければ、上手に読むこともできません。恐らく、頭の中の構造が、極めて論文・説明文的で、詩的ではないのだと思います。そんな話を知人にしたところ、「読もう」とするから読めないんだと言われました。なるほど、詩とは「読む」ものというより、「感じる」ものなのかもしれません。
「詩」の世界では、文と文とのつながりが曖昧なケースがほとんどです。もちろん、何らつながりが無いわけではありませんが、文と文の間にはそれなりの「距離」があります。その「距離」を読む側の人間が主体的に埋めていくことで、詩の世界は成立します。
Aという事実からBという事実を説明し、C、D、E・・・とつなげてZという結論へと導く、それが説明文や論文の手法です。対して、詩の世界に理路整然とした法則やルールはありません。もし、詩の文と文の間に接続詞を挿入すれば、確かな文脈は出来上がるかもしれませんが、出来上がった文章は広がりを持たない、押し付けがましいものになるでしょう。
そう考えると、論文や説明文に比べて、>詩の世界は読み取る側の人間によって、伝わるものが異なってくるのかもしれません。すなわち、作者が思い描いたイメージとは、全く異なるイメージを読み手が思い描いていることもあるのです。
でも、きっとそれで良いのでしょう。たとえ、思い描くイメージが異なっていても、もたらされる「感情」の起伏、そしてとらえるべき「本質」は、さほど相違がないのでしょうから・・・。
「特定の分野」とは、たとえば「詩」がそうです。
実を言うと、私は「詩」が苦手です。書くこともできなければ、上手に読むこともできません。恐らく、頭の中の構造が、極めて論文・説明文的で、詩的ではないのだと思います。そんな話を知人にしたところ、「読もう」とするから読めないんだと言われました。なるほど、詩とは「読む」ものというより、「感じる」ものなのかもしれません。
「詩」の世界では、文と文とのつながりが曖昧なケースがほとんどです。もちろん、何らつながりが無いわけではありませんが、文と文の間にはそれなりの「距離」があります。その「距離」を読む側の人間が主体的に埋めていくことで、詩の世界は成立します。
Aという事実からBという事実を説明し、C、D、E・・・とつなげてZという結論へと導く、それが説明文や論文の手法です。対して、詩の世界に理路整然とした法則やルールはありません。もし、詩の文と文の間に接続詞を挿入すれば、確かな文脈は出来上がるかもしれませんが、出来上がった文章は広がりを持たない、押し付けがましいものになるでしょう。
そう考えると、論文や説明文に比べて、>詩の世界は読み取る側の人間によって、伝わるものが異なってくるのかもしれません。すなわち、作者が思い描いたイメージとは、全く異なるイメージを読み手が思い描いていることもあるのです。
でも、きっとそれで良いのでしょう。たとえ、思い描くイメージが異なっていても、もたらされる「感情」の起伏、そしてとらえるべき「本質」は、さほど相違がないのでしょうから・・・。