作業所は、理由の如何に関わらず、追い出される場所。

 

作業所側が居場所として特例的に置いてくれる場合は別として、基本は留まって欲しくないという見解でもある。

 

行政も厚労省も「社会復帰」を前提としている場所であると明言しているから、当然「いたいけれど、いさせてもらえない」という事態は容易に起こり得る。

 

社会の中に居場所がなくても、見つけられなくても、社会が必要としていなくても、社会復帰をしないといけないというのは極めて重い話だとは思う。

 

社会の側の話をすると、「福祉と労働は別なので」ってなって、行政側は管轄違いってことで明言を避けるけど。

 

社会に求められていなくても社会復帰しないといけないのが今の社会で、そういう制度を我々って必要として来て、作って来たんだと思う。

誰が作ったシステムかは知らないけど、これが欲されて作られたシステムの現状だから。

 

それでもお尻を叩かれて社会復帰しろっていうのが当然のこととはされている。

 

作業所から昇格するって、周りを巻き込んでいく力が少なからず当事者側に必要。それが出来ることさえもテストのひとつとして見られている向きはあるけど、ハイコスト、ローリターンだと思ってしまう。

 

稀にしかない運や確率をどう味方に付ければいいのかって。ただ生きているだけでも年齢が上がる。障害者でその有り様ってなると、更に存在価値がなくなるのに。

 

バリアフリーの先に、健常者と同じ扱いを受けていく先に、これが良い悪いじゃなくて、自分の存在価値を常に問わなくならない状態になるんだと思う。これは必然。起き得ること。

健常者と同類になることを求められていく中で、永久に避けられない。

 

どれだけ努力しようと、結局その時の社会がそもそも求めなければ、また作業所に戻ることにはなる。

社会の外に救いがあるって、メンタルとか精神についての話とか、深い哲学みたいのとかってあるけど、結局そういうのって、健常者社会で立場を確立した人のためのものだから。

 

作業所行っているような人にとっては、社会の中にしか居場所は無いから。社会に埋もれながらしか生きていく場所がない当事者にとって、社会の外を見たり、社会の外から内側を見たりとか、そんなのあり得ない話でしょ。

 

でも最終ゴールは作業所しかない。だって、「利用期間や年齢の定めがない」っていうのがβ版の作業所の法律ではあるから。隠れ日雇いのようにして、職場として活用する道しか自分にはない。

これは内密で、相談員や作業所側に知れたら許されない発想だけど。作業所に拾って貰うことしか出来ないし、唯一世の中の規範やルールの網の目を潜っていられる場所でもあるから。

 

最下層の最後のテリトリーみたいなさ。規格外でも置かせてもらえる場所ってね。身を落としてもいられる場所って必要だとは思うよ、社会復帰が善だということにはなっているけど。

 

どれだけ福祉費費やすことがおかしいと叩かれて社会復帰しても、「自分は公費の負担にならないように言われて社会に出ました」なんて言うことしか出来ないのが本音の当事者で溢れたらさ、どうよ?

そんな偉い口叩く障害者が社会の成員ってのもさ。

そういうことだよ。

 

尻叩いて社会に出したとしても、こういう理由で社会に出ているとしたらさ。

 

世の中の規律や規範に則れば、社会復帰は絶対原則だけど、社会で許してはいけない人を何度でもループさせながら再訓練させていく仕組みが作業所だから。