小学生のころ、20になり成人した自分へ手紙を書くという学校の授業があった。

その手紙はタイムカプセルに入れ預けられ、ハタチになった時それを学校に受け取りにいった。

八年間という時間は長かった。実は、その手紙に書いた内容は憶えてはいたんだが、あまりに遠い記憶で、八年前の自分は、当然だけど今の自分ではなかった。


たとえば
三分後の自分に手紙を書いてみる。三分後の未来などあまりに近すぎる。今と変わらない自分に手紙を書くというのはなんだかこっ恥ずかしい。

たとえば
一日後の自分に手紙を書いてみる。夜に筆を執ってみて、朝起きてその文章を読んだらそれもまたきっと恥ずかしい。夜と朝のテンションの差が?あるいは、あまりにこの「自分」というものから離れた客観的な文章が恥ずかしいのだろうか。


一週間後の、一ヶ月後の、一年後の自分へ、・・・・と考えていくと、どうやら自分にとってその行為が恥ずかしいと思わなくなる期間というのは二年らしい

二年経てば変わる、振り返ってみれば二年前の自分と今の自分は全然違うし、その二年前もまた大きく違っていた。

生きていればひとは変わる。微妙な差異でしかない毎日も、積み重なれば、大きな変化になる。
波打ち際に佇んでいると自分では認識していても、いつしか海水に呑まれるほどに水が押し寄せているかもしれないし、逆に気づかぬうちに水辺などずっと遠くに離れていることもあるのかもしれない。

変わることに悲観してはいない。二年後の自分へ。
ちょっとメモがてら



強さには「相対的強さ」と「絶対的強さ」がある。
相対的とは文字通り、他と比べてということだ。一方絶対的強さとは、ある絶対的な指針や基準と比べた時の強さ。

格闘技を考えてみよう、そこには相対的な強さのモノサシしか存在しない。
誰々より強いとか、ランキングで何位だとか、相対的なもの。

絶対的強さとは、内面的精神的なものだ。
例えば、なにか悪い出来事が起きたときどれだけ傷つかずにいられるかどうか。


相対的強さと絶対的強さは相反する。
相対的強さは、かけがえのないものや情熱を注ぐことのできるものがあればあるほど増す。
他方、絶対的強さは失うもの執着するものが少なければ少ないほど増す。


かけがえのないもの、情熱を注げるものは感情を喚起する。そして愛情、憎悪、嫉妬などの感情はいやがうえにも他者や他のものに対して比べることへと、ひとを駆動していく。

何も失うことがないことの強靭さは絶対的な信念を強固にしていく。




言い換えれば、相対的強さとは「誰かのために」の強さで、絶対的強さとは「自分のために」の強さだ。 
どちらがいいということではないよ。ひとりでは生きていけないし、ひとりでしか生きていけないんだから。

思った。

学校時代うまくいかず落ちこぼれて中途退学したみたいな認識だったけど、むしろある時期まで学校に行き続けたことのほうがよほど驚異的だ

いまになってみれば、絶望的な事態の社会のなかで十数年間は社会参加をし続けたことが自分でも驚きだ

断言できる。遅かれ早かれこうなったと。
だから早いほうがよかった。早くてよかった。絶望的な社会から「イチ抜ける」のには早いことに圧倒的なアドバンテージがある。というか、遅いと死ぬ

社会から抜けるのが遅いと、半身は社会化され、もう半身は社会から脱落し、いずれ身を引き裂かれる。これはメタファーだけども、だけど身を引き裂かれれば生きてはいけない。


この社会は、子どもが大人になりたいと思えるような社会なのかな。