いま甦る、己のプライドを賭けた死闘!いざ関ヶ原へ! って大げさですね(^_^;)
『REBOOT !! SEKIGAHARA (西軍編 その1)』 からのつづき
青地に白く染め抜かれた「兒文字」の軍旗が陣を颯爽と飾っています。「浮田秀家」と表記されてますね。
豊臣秀吉の寵を受けたに値する立派な武者姿で描かれてます。実際に長身の美男子だったらしいです。彼の肖像画が岡山城に伝わっています。お顔はこんなカンジだったみたいですね。
その秀家は西軍副総帥として、自ら1万7000という西軍主力の大軍勢を率い、東軍先鋒・福島正則隊と死闘を繰り広げました。しかし小早川隊の裏切りもあって、ついには敗走。五大老・宇喜多秀家の栄華が終わった瞬間です。
合戦の後、島津家や正室の豪姫の実家・前田家の尽力で助命はされましたが、八丈島へ流刑に。その地で80余年にわたる波乱の生涯を全うしたのでした。数奇な運命を辿った武将ですね。
明石掃部
「信長の野望」などでは“明石全登”の名で出てきますよね。供を連れて馬上から指揮をしている様子が描かれています。
宇喜多秀家隊1万7000のうち精鋭8000を率い、あの猛将・福島正則と互角以上の戦いを展開。西軍壊滅後は戦線から離脱し、同じキリシタンだった黒田家などにかくまわれていたとも。
そして時は流れて「大坂の陣」。豊臣方の将として再び表舞台に帰ってきた彼は、徳川勢を相手に積年の恨みを晴らすかのように奮戦。しかし、この「夏の陣」最後の戦闘において、押し寄せる敵に突撃を敢行、以後行方不明となる… 彼はキリシタンだったので自死は選ばず、何処かに落ち延びたのかもしれません。謎の多い武将です。
小西行長 肥後宇土20万石
『図屏風』ではなぜか西向き、つまり東軍に背を向ける形で描かれてます。敗走を始めた直後の様子を表現したいのでしょうか?
朝鮮出兵で功のあった彼ですが、そこで加藤清正と対立を深め、石田三成とともに明との和平交渉を行ったりと、関ヶ原につながるような出来事もありました。
関ヶ原では島津隊と宇喜多隊の間に布陣。福島隊が宇喜多隊に一斉射撃をしたことを受け、小西隊は烽火を上げて西軍全軍に開戦を知らしめました。織田有楽斎隊や古田重勝隊と交戦していましたが、大谷隊壊滅後、行長は戦意喪失してしまったそうで、島津隊の後ろから揖斐方面へと落ちていきました。
敗戦後、東軍に投降した彼は、石田三成らとともに大坂堺や洛中を引き回され、六条河原で斬首されました。キリシタンであるため切腹は望まなかったのでしょうか。
小西行長の遺領、肥後宇土は加藤清正の領地となりました。清正と行長の対立激しかった肥後も、こうして「関ヶ原後」を迎えたのです。
島津義弘 薩摩鹿児島56万石
この武将も戦国時代を代表する“つわもの”ですよね。九州や朝鮮での活躍など、武勇は語りつくせない人です。また寡兵を以て大軍に勝つという戦上手であったようです。
義弘は関ヶ原の戦い当時、すでに齢66歳。当時の寿命を考えればスゴイことですよね!そういうこともあってか、「関ヶ原町歴史民俗資料館」内の武将肖像画がズラリと並ぶところでも、なぜか義弘だけは年齢が記載されているくらいです。
西軍の戦線崩壊後は、東軍に包囲されながらも薩摩兵は次々と捨て駒になり、勇猛果敢に血路を切り開いていきます。そして義弘を薩摩まで逃すことに成功するのです。この「敵中突破」「島津の退き口」の故事は今なお伝わり、彼らの武勇を後世に轟かせています。
戦後、義弘と家康は紆余曲折はありましたが講和を結び、島津家は本領安堵。しかし、両者の心中やいかに?というところです。お互いに腹立たしいことこの上なかったでしょう。そして月日は流れ、いわゆる“幕末期”には島津家の薩摩は、徳川幕府を倒す大きな原動力になったのでした。
島津豊久 日向佐土原2万9千石
島津家久の子。義弘の甥。この『図屏風』では義弘と轡を並べるように描かれ勇躍していますね。
関ヶ原の戦いでは義弘をよく支えました。撤退戦では”鋒矢の陣”の先頭を務め、家康陣営前の強行突破に成功。しかし、東軍の猛追に対して義弘を薩摩まで逃すため、自ら第一殿をつとめて烏頭坂で踏み留まりますが、ついに最期の時を迎えました。享年30歳。関ヶ原古戦場跡には彼を偲ぶ碑がいくつかあるようです。
「敵中突破」の最中の豊久と義弘、互いの心中はどんなものだったのでしょうか。
”お家の事情”で薩摩軍主力を戦地に呼び寄せられなかった義弘にとって、甥の豊久の参陣は何にも増して心強かったはず。その甥を殿軍として死地にやる訳ですから、「血の涙を流す」という表現では言い尽くせないほどに無念だったと思います。
阿多長寿院
阿多盛敦とも。『図屏風』では「阿田長寿院」となっています。島津の誇る鉄砲隊を指揮していますね。
秀吉の九州征伐の際、島津家と秀吉の交渉を取り持った人だそうです。太閤検地を通じて石田三成とも交流があったらしく、そういう経緯もあってか、義弘の西軍参戦を知り薩摩から駆けつけたそうです。
彼も撤退戦では義弘を逃すために第二殿として時間を稼ぎ、主君・義弘が遠くに去るのを察すると同時に斃れたと伝えられているそうです。彼もまた、“つわもの”でした。
この『図屏風』部分の最上部に大谷吉勝、左部に木下頼継、右部に戸田重政が描かれています。大谷隊の武勇を褒め称えるかのように、しっかりと描写されていますね。
大谷吉勝。吉治とも。大谷吉継の子であるとも弟であるとも言われている武将。関ヶ原では落ち延びますが、大坂の陣で再び戦列に復帰。夏の陣にて討死。
木下頼継。大谷吉継の子。秀吉に愛されて木下姓を賜る。関ヶ原では父の命で落ち延びますが、ほどなく病死したそうです。
戸田重政。勝成とも。越前安居を居城にし、関ヶ原の戦いでは大谷吉継の組下となり奮戦。小早川隊と脇坂隊・朽木隊らの裏切りによる大乱戦の中、東軍の織田有楽斎の嫡男・長孝に討たれたそうです。
次回より「東軍編」になります。
(つづく)






