最近では直葬が一般化してきているとはいえ、それでも直葬ではなく、頑なに家族葬を勧める葬儀社もいまだ多く存在するという話を聞きます。

スタイルだけで考えれば、直葬は極めて単価の低い葬儀種別。会場を用意し、祭壇をつくり、人を呼んでもてなすという「お通夜」「葬儀・告別式」スタイルの葬儀のほうが、より心がこもっているという印象があるでしょう。

「火葬だけではあまりにも故人様がかわいそう」
「単なる″遺体の処理クになってしまう」

そう言って、何としても会場を用意した葬儀を勧めるところもあります。葬儀は収入があることも見越して計画を立てるべきだ、というわけです。

参考:http://www.xn--n8jp4go03mk10b5etpjn.xyz/%E8%91%AC%E5%84%80%E3%81%AB%E3%81%AF%E5%8F%8E%E5%85%A5%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8B.html


たしかに、お通夜と葬儀上回別式といった「葬送儀礼」を排した直葬は、厳密には「葬儀」(葬送儀礼の略語)とは呼べないかもしれません。

「安く済ませる」ということでお金だけにフォーカスすれば、直葬が一番という結論になるのでしょうが、そこには「(火葬だけでは)うしろめたい」という、倫理観との葛藤があります。

葬儀を営む遺族サイドが納得し、それで済むことならいいのですが、問題は「周囲の声」であることが多いようです.

年老いた父親を直葬で見送った方で、葬儀後しばらく経ってからこんなことを一言っていた方がいました。

「親成に怒られちゃいましたよっ『葬式をしなかったなんて、ちょっとひどくないか?』って……もうまったく交流のなくなった父方の遠い親成で、事前に『直葬をします』ということは伝えて、参列の必要はないことも申し出ていたんですがねえ……

いままで何の連絡もしてこなかったのに、最後にうるさいことを言うなんてねえ」

この方の場合は、父親と自分たち家族は都会に、親成は地方に住んでいました

地方では、まだまだ古い価値観が残っていて、直葬に抵抗がある人が大勢です。

「立派な葬儀を出すことが、人としての道である」
「火葬だけなんて、故人やご先祖をないがしろにしている」

といった考えは根強く残っています

これはいかに「いまや『小規模の葬儀』の時代」といえど、簡単に払拭できるものではありません。

都会に暮らす年輩の人が「自分の最期は直葬で結構、葬儀にかける分のお金は、できるだけ家族に残したい」と希望し、家族に伝えていたとしても、その人の死後、地方に暮らす親戚から「何でちゃんとした葬儀をしなかったんだ―」と、遺族が責められてしまうということが起こる可能性があるわけです。


「節目を持つ」という意義


私自身は、そこに「意義」さえあれば、「火葬だけなんてかわいそう」一ちゃんとした(人を呼んだ)葬儀をするほうがいい」という思いは持っていません。

「人が亡くなったことに対して節日を持つ」

これも立派な意義です。とはいえ、人を呼んだ葬儀をすることだけが、故人にとって、また遺族にとっての節目となるわけではありません。

もしも遺族が「僧侶による読経が節目となる」と感じるのなら、葬儀社との相談で僧侶を火葬場に呼べばいいのです。

直葬において読経をする場所といえば、具体的には次の3カ所となります。

・安置所あるいは自宅(火葬場への出棺前)
・火葬場での火葬前
・収骨後のお骨の前

どの段階で読経をしてもらうかは、遺族のリクエスト次第ということになります。

もちろん、読経といった宗教的儀式だけが節目になるわけではありません。花を手向ける、最後に言葉をかける……。故人を見送る際の節目は、遺族の気持ちによってさまざまなかたちがあるはずです。

私が以前見た直葬では、遺族の一人ひとりが故人に手紙を書いてきていて、それを棺に入れて火葬するというものがありました。

大人から子どもまで、故人とのそれぞれの関係性のなかで、贈る言葉を用意する……。これは素晴らしい節目です。プロである私も感動してしまいました。

「火葬だけではむなしい」
「節目を持ちたい」

そう考える人に対して、本当に必要なもの、無駄と思えるものを見極め、どれだけ意を酌んだ提案ができるかが、葬儀のプロとしての葬儀社の役割ではないでしょうか。