人と人とが会って言葉を交わす。人と話す他の多くの方法があっても、会って話をするということは私にとって他に変えられないものだ。人通りの多い街を並んで歩き、たまに目に付く少しおしゃれでよくわからない日用品を売るお店、街路に突き出した大して興味もない看板に目を奪われながら、ちょっとしたことを針小棒大に語る。閑静な住宅街の狭く見通しのきかない迷路のような小道を遠くにある高い建物を頼りに歩きながら、状況があまり想像ができない相手の思い出を非常に興味深く拝聴する。どこかの喫茶店や人通りの少ない場所に置かれた長椅子に座って、深く味わい深い話を交わす。話題はなんでもよい。近い距離で何か言葉を交わすことが一番重要で、本当に楽しく、うれしく、心地いいものだ。
人と話しながら私は相手の言葉の選び方、会話の運び方、声色の変化、表情、話す速度、目線になんとなしに気を配り、相手がどう思っているのか、楽しんでいるか、喜んでいるか、はたまた悲しんでいるのかを感じ取る。こういうのは人間の慣れというか、私が十分注意してきたからか、そうしようと意識せずとも自然とわかるものだ。よく知った仲ならなおさらで、以心伝心のように何を考えているのかが朧げながら伝わってくる。
ただ、人間というのは複雑なもので、相手が楽しいと感じているからと言って自分が楽しいかどうかはまた別だ。単なる話術の技術的な駆使によって相手を楽しませてるだけだっていうちょっとしたニヒルな感情を抱くこともあるし、相手が興奮していればむしろ自分は少し落ち着いてゆったりとした口調で相手の話を冷静に聞かなくちゃってなるときもある。
でも、できれば相手が私と話して楽しいとか嬉しいとか思うようにしたいものだ。もちろん状況がそれを許さないことがあるけれど、それにしたって人間は共感の生き物、やっぱり相手が楽しんでいる方が自分も楽しめる。だから特別な状況でない限り、私は相手の気持ちを感じ取ったら言葉や話題をうまく選んで、時にちょっとふざけた感じで相手をもっと楽しませようと思うんだ。
昔から私は人と話すのが好きだし、人と会って話をするのをとても楽しんできた。場に応じてとても面倒で難しい物理学や数学の話をすることもあれば、とんでもなくくだらない話をすることもあったけど、どちらか一方だけがいいってわけじゃなくて、両方とも必要なのだ。難しい話ばっかりしていると私も疲れちゃうし、たまに甘い角砂糖を入れた紅茶を飲みたくなる。でも、軽い話ばかりだと飽きちゃうんだ。
いろんなところに行っていろんな人と知り合うと、時々、阿吽の呼吸のように私との会話がまるで映画のセリフのように弾む人がいる。そういった会話はいつまでも続けていられる。会話がポンポンとボールのように弾むんだ。そして、そういう人が私にとって得難い友となり、永く続く縁となっていくんだ。そんな人と話していると感じるんだ、ああ、幸せだなぁって。