王陽明の『伝習録』を読んでいて、興味深い記述を見つけた。陽明曰く、学問を修めるにはまず自己を内省し人欲を克服せねばならない。内省と克服の工夫には間断があってはならず、人欲のいささかの残留も許さないという心構えがなくてはならない。ちょっとでも私欲の念が萌したら、すぐさまこれを克服し、相手から一切の手立てを奪い取らなければならない。こうして初めて真正に工夫したことになり、またいかなる私欲の残留もないようにすることが可能となる。そして果てには、もはや克服すべき『私』の影もなくなり、そこまでくれば、自己の自然のままに振舞っていてよいということになる。

 

 また別の時に、弟子に聖人がどんなことにも自在に対応するのは事の推移に対してあらかじめ考察が行き届いているからかと問われて陽明が言うには、聖人は決して多事かつ多様なものをあらかじめ考察しているのではない。聖人の心はいわば明鏡で、そのくまなき明澄のゆえに、対象のあるがままに感応し、そのすべてを映し出すだけのことだ。聖人はことの転変の全てを知り尽くせるかどうかを案じたのでなく、ひたすら鏡が澄明でないことをのみ恐れていた。

 

 昔も今も修学のあり方は変わらない。学を自らの体に納め、学んだ学問が行動や言葉に自然と現れる、しかも一貫したあり方で現れるのが望ましい。自己の認識した対象が心の中に映し出され、自らの今までの認知や行動と矛盾しない一貫した解釈が自然と、大した苦労なく、時には間を置くことなく得られる。学を極めた聖人はあたかも世界を見通すように見えるが、聖人とて鏡のような心が映像を映せる場合に限ってことの転変を考究したに過ぎない。その時勢が必要とすることを、その必要に応じてのみ手がけたのである。孔子とてユークリッド幾何学を生み出したわけではない。しかし、六経を削述し万世に明示したのである。

 

 物理学でいえば、物理学を修めるとは、物理学という体系の仕組みが身体をもって一貫したものとして矛盾なく習得され、各種概念の理解が明瞭であり、あらゆる基本的な方程式や定理、概念、それらに付随するいくつかの関連事項が自然と口に上るとともに、時勢が求めるものを物理学の適用可能性も含めて自然と解釈することができるということである。物理学は適用可能な限りの森羅万象を理解するために利用することができるかもしれない。しかし一人の人間が、物理学が許容するのと同じだけの対象の理解をすることは、賢人の資質として、あれば越したことはないが全く当てはまらない。

 

 かような聖人は純朴にして明瞭な人物であろう。学を修めるとはまさしく学ぶことによって得られたものが自然と内面化され、その良い影響が自然と醸し出されるものである。