学問の道は終わりなき旅路であり、未知の発掘と理論の衝突、知識の蓄積という過程の反復運動である。学問の探求とは終わりなきものであると私が言うとき、おそらくそれに疑問を呈する人間はどこにもいないだろう。確かに知識の蓄積という点において学問は、時折多くの理論の根幹にある一般的に正しいと信じられていた主張が否定されることによって、その主張に基づく理論がみな、知識として学問史的価値以外にはほとんど無価値となることを除けば、おおむね時間とともに増大化していく傾向にある。むろん錬金術のように学問の目的それ自体が否定されれば学問として消え去る(錬金術の知識それ自体は化学に転用されているようである)。とはいえ、ある程度長い間探求され続けてきた学問はその勃興期に比べて知識の総体として増えているだろう。

 

 では、諸学問の知識は永遠に増え続けるのか。収斂する可能性、すなわち完成する可能性はあるのか。原理的には学問が完成するかどうかについて我々は知ることができないだろう。なぜならたいていの学問にとっては学問の最終的目標そのものが不明瞭であるからであるし、我々の知るいかなる論理的手段を用いても学問にこれ以上の発展の余地がないと宣言することができないからである。

 

 とはいえ、実際上は学問の知識体系の構成それ自体に大きな論理的欠陥が含まれているように見える。すなわち、我々は自然言語という論理的厳密性を求めるには甚だ不適切な手段を用いて知識体系を構成しているのである。数学や記号論理学を除くすべての学問において自然言語を用いて理論が記述される。自然言語に含まれる言葉の多くが二つ以上の意味を併せ持つ。そして自然言語で書かれた文章は多少論理的に不明瞭でも読者が理解できて論理的正当性の判断がおざなりになる傾向があり、そして数学記法によって書かれた場合よりも議論の前提があいまいになりやすい。故に自然言語で書かれた論理的に欠陥のある理論をもとに長い間無駄な論争を繰り広げる可能性を否定できない。さらには人文学、自然科学を問わず理論の適用対象に曖昧性があり、いかなる条件のもとでその理論が適用できるのかという議論があまり詳細に定められておらず、この理論が対象をある程度説明できるからこの理論がその対象に適用できる、やってみたらうまくできたから理論をその対象に適用するという非論理的手法が跋扈している。例えば古文のある文法理論の適用される時代の境界のように曖昧性があることは確かだが、だからといって境界がどこにあるのか詳しく調べて理論の適用条件を厳密に定めることに意味がないわけではなく、それをすることによっていかように使われる文法が時代ごとに、地域ごとに、さらには各人ごとに変化していったのかを知ることがある程度の曖昧性を踏まえて知ることができるだろう。曖昧性の議論をする手段は論理学にも存在し、数学に計算理論など多くの近似理論が存在する。しかし前文のような曖昧性を議論する論理的手法を私は聞いたことがないため、新たな論理的手法を発明する必要があるのかもしれない。

 

 学問の最終的完成を、学問の知識体系上の十分広いある領域内で論理的に厳密な体系を構築することであると規定すれば、我々は確かに学問に終わりを見出すことができる。知識体系の内、論理的に厳密に構成された領域についてはもはや自然言語を用いた不毛な論争をすることはなくなり、問題は学問の自然言語から論理的記法への変換方法と用いた論理的手法の正しさのみに極小化するであろう。論理的記法を数学記法でもって行うのであれば、物理学を記述するために微分積分が考案されたように、新たな数学的手法が必要になるだろう(ただし、今の物理学も論理的に不完全である)。大変な仕事だし、雲をつかむようでどう行えばいいのかわからないが、いずれは成し遂げられると私は信じる。