今の日本には、人が模範とすることのできる十分な教養を備えた知性的人間が欠けている。それどころか、今の日本人は教養が人間の成長に資するという重要性を知らないようだ。教養は、人間精神を閉ざされた檻から解放し、人間の思考の枠組みを拡張して人間の成長に役立つものだが、哲学を失った現代では教養の意味が顧みられることは少ない。私は東大の学生に接する機会が多いが、彼らの多くは自ら積極的に学問を勉強することにどこか引け目を感じる節があるのかもしれない。世間から勉強しか取り柄がないとみられることを恐れ、むしろ積極的に遊ぶことにより勉強で彩られた青春を中和しているように見える。東大生を主体とする番組がテレビで多く作られ、それらにあこがれを持つ東大生が一定数存在するのは、東大生の勉強も遊びもできる人間に対する渇望と、現代日本が経済的に没落し大企業など過去に権威あるものとされてきた多くのものがその権威を喪失していく中で、東大が権威を保った最後の砦であり、東大に対する憧れ、またはその東大生がむしろ抜けたところを見せるところで視聴者が優越感を得ることができるところが大きいだろう。しかし、テレビで見られる東大生の知性的行為は専らその知識によるところが大きく、知識量を生かした創造的思考に出会うことはない。大学受験の筆記試験で見られるような知識量の多さと決まった型に当てはめて問題に回答する情報処理に長けたことを頭がよい、知性的であると仮定されていることに視聴者は疑問を持たないようである。それなのに、アメリカのシリコンバレーのような革新的技術・製品を生み出す日本人を育てようとして、従来の詰込み型教育からの転換を図ろうとするここ十数年の政府の動きに多くの日本人が賛成しており、これら二つに日本人の矛盾がみられる。賢さとは何か、人間の知性とは何かを皆知らないのだろう。それを身でもって示せる日本人は絶滅危惧種になったが故に。
ならば、知性と何かを問い、それを得る方法を過去に学ぶか、自ら考えなければならない。前者は偉大な過去の賢者たちの著作や伝記を読み、徹底した反復により彼らの思考法を身に宿せばよろしい。ここでは主に後者について論述する。知性は、知識とそれを体系づけ利用する思索の能力の二つから成り立つ。思索なくして知性は死んだも同然であり、知識なくして思索はよすがを持たない。知識を得る、もしくはそれを用いてすでに答えの知られているないしすぐにわかる問題を解く能力を得るのは、徹底した反復により身に付けられる上にすでに多くの知識獲得の手法が今の日本では用意されているため、思索の能力を得るのに比べて簡単である。今の日本で思索の能力を得るのは、その模範となるものがほとんどいないため非常に難しいが、これを獲得する方法は存在する。
まず、自らの経験により得た知識をほかの知識と照らし合わせたり、論理的な推論であるかを確かめたりするなどして徹底的に批判し、間違いを改善するための仮説を立てる。仮説はそれが以前の知識よりも妥当であるかという検証にかけられ、以前よりもうまくいっていなければ廃棄する、同程度以上に妥当性があれば以前の知識よりも改善されたものとなっている可能性があるとみなすことができる。後者の場合、自らの思索によってこの世界についての新たな知識を得たことになり、その思考プロセスが思索の能力を発達させる。たとえ疑問点だけわかっていてそれを解決する仮説を思いつかない場合でも、疑問点を見つけたことにより思索の能力は発達する。疑問点すら見つからずとも、得た知識の粗を探しただけで思索の能力は発達するのだ。これを繰り返すうちに、自らの知識を基盤として新たな仮説を創造することができるようになる。その仮説は自らの思索による徹底した批判に掛けられ、それに耐えうるものであったとき、その仮説は新たな知識となり、知識の創造のプロセスは完成する。この時にも思索の能力は発達する。
あらゆるものを批判し、改善することを通して新たな知識の創造へと至る。このプロセスが思索の能力を伸ばし、知識と合わせて人間の知性をより高尚なものへ高めるのである。
※11月24日 一段落目に「東大に対する憧れ、または」を追加