山本玄峰という禅僧がいた。遷化の時に「最後の禅僧の死」と言われたという。玄峰老師が僧堂で説法をした記録に『無門関提唱』という本がある。
その抜き書きを20代後半の青年時代に筆写した人がいる。今、その人は自然エネルギーの普及と過疎化地方都市の再生事業のプロジェクトリーダとして活躍。人親孝行、人格高潔な経営者となっている。
その方から筆者録の写しをいただいた。
玄峰老師は、生まれたばかりの嬰児の時に川に流された。人べらしのために、親が泣く泣く産んだ我が子を捨てたのだ。そんな環境でこの世に生を受けた玄峰老師は、生来、眼疾を煩い、四国八十八カ所の行脚の最中に道に倒れたていたところを僧に助けられて出家した。
臨済宗の禅道場で修行して三島の竜沢寺で過ごした。無門関提唱の中から、いくつかの味わいある言葉を紹介しておこう。
「断命根、命のほしいようなやつは禅宗坊主にはなれんぜ。誓っていうておくなれんぜ。命がほしかったり、金がほしかったり、名誉がほしかったりするような者は禅宗坊主じゃないのじゃ。仏さまの弟子にはなれん」
私たちはもちろん禅宗坊主になるわけではない。
老師が言っているのは、何をやるにしても命懸けでやれということ。そして、卑しい心根の人間になるなということだと思う。
「心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな
この心を自由自在に使っていくのが修行じゃ。よく人は心配するなというが、心配せにゃいかん。心のくばりかたの下手なやつが世の落伍者となってしまう。心を配らぬから人との仲が悪くなったり、きらわれたりして、一生慈眼大師が描いた幽霊みたいになって暮らしていくことになる」
本当にそのとおりですね。自戒、自戒。
「人多き 人の人ある その中で 人人となれ 人人となれ
要はどうかといえば、物事をあきらめるべきことはさらりさらりとあきらめる。そのかわり熱心にやらんならんことこそやる。やらんならんといったら七転び八起きぐらいの話じゃない。百転び百起きしてでも徹底的にやりおうせていく、そういうようになるように修行をするのじゃ」
世のため人の為にと一念発起した事業にしろ計画にしろ、それが真に意義ある事業ならば、スタートしたからには、石にかじりついてでもやり通す!