カントの規則正しい毎日の散歩を狂わせるほどカントに衝撃を与えたルソーの『エミール』。ルソーのいわば教育論であるが、その中に次のような一説がありました。
悪いことをする人間以外に奴隷はいないのだ、なぜならその人は常に自分の意志に反して悪いことをするのだから。自由は、いかなる統治形態のもとにも存在しない。それは自由な人間の心のなかに存在する。自由な人間は、いたるところに自由をもち歩く。卑しい人間はいたるところに隷属をもち歩く。ある人はジュネーヴにいても奴隷であり、ある人はパリにいても自由である。
『エミール』戸部松実訳)より
特に近代の産業革命と資本主義の出現そして欧米列強の植民地主義以来、今日まで綿々と続いている弱肉強食の進化論的な物の考え方は、近年「自己責任」という、表現を変えた強者の言説になって表れています。格差が広がり、貧乏人はますます貧乏人に。まるで奴隷のようです。
しかし、ちょっと考えてみてください。貧乏人が奴隷でしょうか。
貧乏人を一見奴隷の如く扱い見下す社会状況に便乗し、社会的に影響力を持つ地位にあってもそれを変えようともしない“自分”こそが、本来の自己を見失った、魂の放棄者、精神的奴隷なのではないでしょうか。
善を求め良心にのっとって正しく、人の道を踏み外さず質素に生きている多くの庶民の心こそ逆に羽のように軽く、ある意味自由なのではないでしょうか。
カクカクたる立場を保持して飛ぶ鳥を落とす勢いの権勢家が、もしも熟慮を欠いて、目の前の成功と利を追って長期的視野を放棄し、公正公共的な日本と世界を求める意志を放棄するとき、そういう“自分”は、貧しい如何なる民衆よりも、雁字搦めの鎖に繋がれた、精神の奴隷ではないでしょうか。
プラトンは、正義の人は幸福であり、不正な人は不幸であるという意味のことを言っています。
これを敷衍していえば、正しい人は良心に悖らないがうえに心軽き自由人であり、不正又は不正を知りながらエゴのために目をつぶり見過ごしている「賢者」「指導者」は、良心に悖るがゆえに、魂を売り渡した魔の奴隷だと思うのです。
以上、私の自由人と奴隷観でした。