広島県の世界遺産、原爆ドーム
1915年広島県物産陳列館、1933年広島県産業奨励館と名を変えた建造物です
1945年8月6日午前8時15分、広島県産業奨励館から南東160メートル、高度600メートルで、原子爆弾が炸裂し、爆風圧力1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルと凄まじいもので、建物は爆風と熱線を浴びて破壊される。1996年12月世界文化遺産登録。

日本人なら知らぬ者はいない悲しい歴史の跡
当時は第二次世界大戦末期、敗戦濃厚の日本は、特攻出撃で足掻いていたが、徐々に戦況悪化し、もはや打開策は無かった中で、米国は、この戦争を終わらせる為に、日本に原子爆弾を投下する決定を下す

広島、長崎だけが原爆投下地ではなかった
当初は複数候補地はあった中で、京都も含まれていた
第一目標は京都だったのは知ることはない
米国は第一目標も反対派が居たため回避された理由、そして戦後の反米感情を避けた決定だと思われる

戦後から79年目、荒廃した街(故郷)から、広島県は復興し立ち上がっただけに、核廃絶、平和の地として後世に残すべき形だと思います。
徐々に戦争を語れる語り部は減少し、次第に過去の歴史として刻まれることになりますが、決して風化をさせてはならない悲惨な歴史を忘れないことが大事だと感じます

宗教の違いや、民族・文化の違い、政権への不満、領土・資源の奪い合いなど紛争には主な理由が位置付けされると思います。涙と血を流す事が平和となるのでしょうか?79年前の真実を世界各国が知らない訳がない、どれだけ日米で多数の命を失い、どれだけ悲惨な結末だったのか...日本は敗戦国となり、様々な思想が崩れた中でも、79年前、米国が広島、長崎に原爆投下、沖縄戦、日本各地の艦砲射撃、空襲を行っても、日本は米国を許している。もちろん「米国に対する恨み」は、全ての日本国民には該当することではない
日本が一番、米国に対して避難すべき問題は「原爆使用」をし民間人の犠牲を出したことに許せない気持ちもある。逆に、「あの原爆が戦争を終結」させたとも言える。だからこそ原爆ドームは、後世に渡り語り継がなければならない重要な歴史と悲劇なのだ

しかし、徐々に日本人も「昔のこと」としか思わなくなったのは寂しく悲しい話だ。また特攻隊を「テロリスト」と言う日本人の若者も存在する
その若者の年齢が、当時の特攻隊の編成なのだ...79年前、その若者たちは日本の未来に希望を託し戦ったのだ。軽はずみで「テロリスト」など表現するのは、日本人として汚れた発言だ

原爆投下爆心地を改めて話します
【爆心地】島病院
【東経】132度27分27秒北緯34度23分29秒
【高度】600メートル
【場所】広島市細工町29-2
✱原爆被災説明板設置
爆心直下となったこの場所は、約3000度~4000度の熱線と爆風や放射線により、ほとんどの人は瞬時に命を奪われた。米軍機B29から落とされた「エノラ・ゲイ」により、8月6日午前8時15分、この地に着弾した

また熱線により「人影」があるのをご存じですか?
原爆投下により一瞬で、人体は消滅し、人影だけが残されている。如何に核兵器が恐ろしくおぞましい物かが分かる。ただ、これは付着物だと言われている(写真は広島・長崎)こちらの人影は保存されており、広島平和記念資料館で「人影の石」として常設展示されています

「広島復興はプロ野球」
私は「はだしのゲン」で知りましたが、広島は復興の力として、球団の資金難を救うために多くの広島市民が手を差し伸べたのが「たる募金」
広島カープは、プロ野球では珍しく親会社を持たない市民球団で戦後は球団を維持するのが難しい中で、たる基金が行われた。広島市民が沢山協力する理由は、戦後復興は広島カープで活力を取り戻したかったのかも知れません。悲しい惨劇を乗り越えるために、広島カープは広島市民の光であり希望だったと私は感じます

しかし、日本全国各地で沢山の甚大な被害があり、戦後は食べることも本当に大変だったと祖母から聞いてます。農家、漁師は食べることには大きく困ることは無かったようですが、食べる物を分けてもらうために、市民は農家、漁師のところに伺い金銭で購入したり、反物、指輪、ブローチなど、なるだけ多く分けて貰えるように形見を手放すなど苦労した話も聞きました
闇市は通常の価格より何倍も高く手が出せない、ミルクの粉は栄養化が高い為、とんでもない値段だったり、それも交換できる物があればまだマシで、無い方はただただ死を待つのみの飢餓に苦しんでいた

戦後79年目の今年、私は戦後30年後に生まれてますが、この戦争を本気に気にしだしたのは、恥ずかしながら12年くらい前です。それは特攻隊の遺書をたまたま読んだ時に、戦争の悲惨な姿を知りたくなり独自で調べました。調べていくうちに、自然と涙が溢れ流れました
そして感じたことは「涙と血を流すことが平和に繋がるのか?」と感じるようになり、SNSなどで発信することが多くなりました。私なりの独学語り部として伝える悲劇は、それに同じ気持ちの方がコメント下さり、教えてくださいます。共有することで、戦争がいかに醜いものか分かります。未来は紛争で平和にならない、民族維持をするのは国々が手を取り合って豊かな気持ちで生きることが一番の平和。

今、紛争状態にある国は武器を降ろし、あなたを待つ方の場所へ帰ろう...それが何よりの幸せなんです