ソクラテス、SHISEIDO アイラッシュカーラーを語る
いま、あなたが何か問題に直面しているなら、
物事を哲学的視点で見なさい
ソクラテス・・・・・・?
「ねえ、君に一つ問おう。
君はまつ毛を上げているつもりで、その実、
自分の目線そのものを上げているのではないか?」
私は市場(アゴラ)で、若者たちが小さな金属の道具を手にするのを見た。
それは武器でも、貨幣でも、権力の象徴でもない。
ただ、まつ毛を挟み、静かに持ち上げるための道具――
SHISEIDO アイラッシュカーラーと呼ばれているらしい。
しかし私は思う。
人は決して「まつ毛」だけを上げているのではない。
「自然に上がる」とは、どういうことか
この道具の特徴は、力を誇示しないことにある。
強く押しつけず、無理に曲げず、
目の形に合わせ、自然に沿って立ち上げる。
ここで私は問いたい。
「美しさとは、支配することか?」
それとも
「本来のかたちを、邪魔せずに現れさせることか?」
もし後者だとしたら、
この小さな道具は、すでに一つの哲学を実践している。
無知の自覚としてのカーブ
このカーラーのカーブは浅い。
つまり、「私はすべてを知っている」と言わない形をしている。
深く入り込みすぎず、
まぶたを傷つけることもない。
これはまるで、私が繰り返し語ってきたあの態度――
「私は知らない」という立場に似てはいないか。
知っているつもりで強く押せば、
まつ毛は折れ、魂は傷つく。
知らないからこそ、
慎重に、相手に合わせる。
そこにだけ、真の立ち上がりが生まれる。
まつ毛は「内なる声」に似ている
まつ毛は小さく、しかし確実に表情を変える。
少し上がるだけで、
世界の見え方が変わる。
これは、魂の声とよく似ている。
大声で叫ばなくてもいい。
派手である必要もない。
正しい位置に立ち上がるだけで、人生は変わる。
SHISEIDOのカーラーは、
その「位置」を知っている。
どこまで挟めば痛みが生まれるか。
どこで止めれば、美しさが続くか。
それを力ではなく、設計という知恵で解決している。
技術とは、徳である
人はよく言う。
「道具に哲学などない」と。
だが私は言いたい。
正しく作られた道具は、沈黙の教師であると。
このカーラーは、
急ぐな、と教える。
力を入れすぎるな、と諭す。
自分の目の形を、まず知れ、と促す。
それは私が若者に問い続けたことと同じだ。
「君は、自分を知っているか?」
なぜ人は、これを定番と呼ぶのか
流行は移ろう。
派手な技術は現れては消える。
それでも人々は、この道具に戻ってくる。
なぜか。
それは、
過剰な主張をしないものだけが、長く信頼されるからだ。
魂も同じだ。
誇示する徳は疑わしい。
静かに、毎日を支える徳こそが本物である。
結論としての問い
私は最後に、こう問いたい。
「君は、何を上げようとしているのか?」
まつ毛か。
評価か。
自己肯定感か。
それとも、他人の視線か。
SHISEIDO アイラッシュカーラーは、
答えを与えない。
ただ、無理なく上がる感覚だけを残す。
そして気づいた者だけが知るだろう。
上がったのは、まつ毛ではない
上がったのは、
世界を見る自分のまなざしなのだと
さて、君は今日、
何を挟み、
何を手放すだろうか?
それを考えること自体が、
すでに哲学なのだから。
哲学的「現代商品論」!
ソクラテス、SHISEIDO アイラッシュカーラーを語る
