はずかしながら、70歳でYouTubeはじめました!

はずかしながら、70歳でYouTubeはじめました!

はずかしながら、七十歳になりました
気がつけば、友人の名前より病院の診察券が増え
飲み屋の姉ちゃんより薬局のお姉さんと話す機会が多くなりました
ということで――
はずかしながら、七十歳でYouTube、はじめました

しあわせ・言葉辞典

 

「幸福とは、手に入れるものではなく、すでに在るものに気づく心である。」

 

幸福【こうふく】

 

幸福とは、人が「生きていてよかった」と、心のどこかで静かに感じられる状態のことである。

 

それは必ずしも、大きな成功や豊かな財産、誰かからの賞賛によって生まれるものではない。むしろ幸福とは、何かを得た瞬間よりも、何も足さなくても「これでいい」と思えた瞬間に、そっと姿を現すことがある。

 

哲学の世界では、幸福は古くから「人は何のために生きるのか」

という問いとともに考えられてきた。

 

古代ギリシャの哲学者たちは、幸福を単なる快楽とは考えなかった。楽しいことが続くことでも、欲しいものがすべて手に入ることでもない。人間が自分らしい力を十分に生かし、よりよく生きること。その生き方そのものの中に幸福があると考えた。

 

つまり幸福とは、人生の最後に受け取る賞品ではない。

 

今日という一日を、どのように生きたか。その積み重ねの中にある。

 

朝、目を覚ます。

水を飲む。

窓を開ける。

誰かと挨拶をする。

働く。

疲れる。

食事をする。

笑う。

少し傷つく。

そして、また眠る。

 

何気なく繰り返されている一日の中には、実は数えきれないほどの「生きている証」が散らばっている。

 

幸福とは、その小さな証を見つける力でもある。

 

禅の考え方から見ると、幸福はさらに不思議な姿をしている。

 

禅では、「幸福になろう」と強く求めすぎることが、かえって幸福から遠ざかることがあると考える。

 

なぜなら、人は「もっと」という心を持った瞬間から、今ここにあるものを不足として見るようになるからである。

 

もっとお金があれば。

もっと愛されたら。

もっと評価されたら。

もっと健康だったら。

もっと自由だったら。

 

そう考えること自体が悪いわけではない。

 

しかし「もっと」の先にだけ幸福があると思い込むと、人生は永遠に未完成になる。

 

禅は、そこに静かな問いを置く。

 

「では、今はどうなのか。」

 

今、この瞬間。

 

呼吸している。

空がある。

身体がある。

今日という時間がある。

誰かを思う心がある。

喜べる心もあれば、悲しめる心もある。

 

それだけでも、人生はすでに多くのものを与えられている。

 

幸福とは、それに気づくことである。

 

だから禅的な幸福は、とても静かである。

 

歓声を上げるような喜びではない。

 

胸の奥で、「ありがたいな」と小さくつぶやくような感覚である。

 

湯気の立つお茶を飲む。

夕暮れを見る。

雨の音を聞く。

布団に入り、身体の力を抜く。

 

そんな何でもない瞬間に、幸福はしばしば宿っている。

 

詩的に言えば、幸福とは「人生の余白に咲く花」である。

 

探していると見つからない。

急いでいると通り過ぎる。

比べていると見えなくなる。

 

しかし、ふと立ち止まったとき、足元に小さく咲いている。

 

幸福には、大きさがない。

 

百万円を手にした幸福と、朝のコーヒーを飲んだ幸福を、本当の意味で比べることはできない。

 

幸福は量ではなく、感じる深さによって存在するからである。

 

また、幸福は永遠に続く状態でもない。

 

人は悲しむ。

迷う。

怒る。

孤独になる。

失う。

 

それでもよい。

 

幸福とは、悲しみのない人生ではない。

 

悲しみがあっても、その人生をもう一度抱きしめられることである。

 

雨の日があるから、晴れの日の光が美しく見えるように、人生の陰影そのものが幸福を深くする。

 

そして幸福には、少し不思議な性質がある。

 

自分だけのために握りしめると、小さくなる。

 

誰かと分かち合うと、大きくなる。

 

「ありがとう。」

「おいしいね。」

「きれいだね。」

「会えてよかった。」

 

そんな短い言葉によって、幸福は人から人へ渡っていく。

 

幸福とは、所有するものではない。

 

巡るものである。

 

誰かから受け取った優しさが、別の誰かへの優しさになる。

 

誰かにもらった言葉が、いつか誰かを救う言葉になる

。

そうして幸福は、見えないところで人生から人生へ受け継がれていく。

 

だから「私は幸福だろうか」と迷ったとき、答えを遠くに探さなくてもよい。

 

今日、心が少し動いた瞬間を思い出してみればよい。

 

笑ったこと。

安心したこと。

誰かを思ったこと。

おいしいと感じたこと。

空を見上げたこと。

疲れて眠れること。

 

そこにはすべて、幸福の種がある。

 

幸福とは、人生が完璧になった状態ではない。

 

不完全な人生を、それでも愛おしいと思える心である。

 

何かになったから幸福なのではない。

 

何かを持っているから幸福なのでもない。

 

「私は、ここにいる。」

 

その事実を静かに受け取ること。

 

それが、幸福のもっとも小さく、そしてもっとも深い形なのかもしれない。

 

幸福は、未来からやってくるものではない。

 

昨日に置き忘れたものでもない。

 

いつも「今」という場所に立っている。

 

ただ私たちが、それに気づくのを待っている。

 

幸福とは、生きていることの中に隠された、小さな肯定である。

 

そしてその肯定を一つひとつ見つけていくことこそ、私たちが自分自身の人生に残していく「私の証」なのである。