原語の味 ~勝手に違う言語に変換される残念な風潮~

 

 

言語はその国で理由があって生まれて

理由があって使われているんですね。

 

私は翻訳家であり、

翻訳を通じて他言語のものを日本語で紹介するという仕事をしていますが

残念なことに翻訳をする際にクライアントから、先に指定されるものがあります。

 

固有名詞が主にそうです。

たとえば映画や歌のタイトル

人名です。

 

韓国映画のタイトルが

日本で上映されるときに

なぜかハリウッド映画かと思うようなタイトルが付くことがあります。

 

ドラマも然り。

 

歌のタイトルも

しっとりと韓国の情緒を扱っているものなのに

タイトルは英語訳を使うように指示されることがあります。

 

歌の歌詞の場合は

日本語版が出ると

やたらに英語が並んだり

内容が幼稚になったりします。

 

 

日本に存在しない物もありますから

翻訳するにできない場合も五万とあります。

これは仕方ない。

 

 

私が今、翻訳しながらもんもんとしているものは

韓国で親しまれている食べ物の一部が人名の一部になっていて

その話で盛り上がる場面があるのに

人名がすでに、英語による名前と決められていて

この盛り上がる話題に全くついていけない状況を生んでいるのです。

その名前は食べ物ともまったく関係のない何とも味気のない英語名。

 

 

具体的に書けなくて申し訳ないのですが

どうするの、この場面!

と、頭がぐるぐる回っている状況。

 

同じアジアなのになぜ西洋圏の言語に変えて表現するの?

 

そのほうが日本人になじみのある場合はもちろん

それもありですが。

あまりにかけ離れていると

そうする必要性を感じないばかりか

ぜんぜん感情移入ができなくなってしまう。

 

 

 

 

原語には意味があり、生きてエネルギーを出していると思う。

原語の持つエネルギーは最大限に、伝えていきたいと思う。

日本語に変えた時に、できるだけそのエネルギーの高さを落としたくない。

 

 

간장は醤油と訳せば通じるのに

わざわざソイソースとしなくていいはず。

간장공장공장장은…の早口言葉も通じなくなるけど

간장 된장 고추장という“醤”には韓国特有の味と香り

作り手の情緒が込められているのに。

伝統を受け継いて、今もおいしくいただくのに

醤油、みそ、コチュジャンで分かるのに“ソース”?

 

みたいなのに近い葛藤だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この葛藤と闘いながら

もうちょっと作業を続けます。