誤解を恐れずに言うと
今、この考えが頭に棲みついている。
高齢者は高額医療ではなく、自宅でおだやかに最期をむかえる方向のほうがよいのではないか?
と。
もちろん日本の医療制度、医学には心から感謝している。
病院にも、だ。
母が亡くなった日。
あの日の朝、
「人工透析ができませんでした」
という電話。
いや、
その前にも何度か、延命治療について意思確認が家族にあった時。
断っていたが、
それは心臓マッサージや、人工呼吸器、胃瘻、などだ。
そもそも
母は、人工透析自体が、延命治療である。
また
連日の輸血も(これは本人の意思)行っており
血圧をあげる薬も投与して、命を延ばしていたのだ。
これも延命治療だろう。
そうなると、その治療はやらないでください
とか
その治療はお願いします、という線引きは
本人や家族の判断になるのだろう。
私たちは、透析さえできれば
とか
透析ができない🟰死
と認識している。
あの日、病院側に退院させようと
「透析はもう(できなくても)しなくてよい」
と決めて覚悟を決めた瞬間であった。
※実際は、透析する方向で話をまとめた
そのあと、
母に「退院するよ、迎えにくるからね!」と
私たちは、みんながはしゃいで
楽しい気分で泊まる日や世話をする日を
手書きのメモで、ワイワイ相談した。
わたしも、講座申し込んだから世話が胸を張ってできるからね!なんて自慢した。
誰が泊まる、
明日はどうする、
時間を区切ろう
お金はある(笑笑)なんて言いながら
たいして仲良くもないのに(笑)
未来に向けて、明るい気持ちで
「とにかく、まずは私たちがしっかり食べておこう!」と
平らげて、
元気に解散したのだ。
まさか解散した、その1時間後に急変して
全員で、集まることになるとは
思わなかった。
高齢者の場合、
最高の医療を受け命をとりとめた感謝は
感謝を超えることはなく
もう治療はしない。
自分たちでみよう
家に戻ろう、と決めた瞬間のほうが
私たちは、喜びに満ち溢れていた。