マタイ 15章


1~9節 手を洗わないで食すること

ユダヤ人は、神様の戒めより自分たちの言い伝えを守っていた。
パンを食べるときに手を洗うことは、先祖の言い伝え。

父母を養うためのものを神様にささげると、父母を養わなくても良いと教えた。
神様の「父と母を敬え」の戒めより、言い伝えが優先していた。


イザヤが預言したように
『口先で敬うが、心は遠く離れている』


今日も、聖書に書かれていることよりキリスト教の教えが優先されている。
→ 口先だけの信仰


10~20節 人の口から出るものが人を汚す

食べ物は人を汚さないが、人の口から出るものが人を汚す

※人は罪人なので、心にある罪が口から出て人を汚す


21~28節 カナン人の女の娘のいやし

カナン人の女が娘のいやしを求めて来たが、イエス様は答えなかった。
→ 「ダビデの子よ」と呼び求めたのが間違い。

※異邦人なので「ダビデの子」と呼び求める権利は無い。


「主よ」と呼び求めた時に、答えられた。
さらに、「小犬」と言われても、自らを「小犬」として求め続けた。

イエス様は、身を低くする信仰を褒められ、娘はいやされた。

※イエス様が信仰を褒められたのは、このカナン人の女と百人隊長の異邦人の二人だけ


29~39節 多くの人のいやしと四千人の給食

大勢の群衆が、病人を連れて来た。すべての病人がいやされた。

群衆がイエス様と三日間ともにいた。
イエス様は、空腹の群衆のために食べ物を与えられた。

弟子たちは、五千人を養われた奇跡(マタイ14章)の経験がありながら、
「たくさんのパンをどこで手に入れることができるでしょう」と不信仰な発言をした。
→ 主イエス様を見ないで、環境(大勢の人と人里離れたところ)を見ていたので不信仰な発言をした。

男だけで四千人の空腹が満たされ、余ったパン切れが七つのかごにいっぱいになった。
→ 神様の恵みは余りある