関西で活動する音楽グループConceptusのブログです。
一切有情殺害三界不堕悪趣
般若理趣の経典に記されたこの文言をまず解釈してみましょう。
浅略な解釈としては、
この経典を読誦(音読)すれば、宇宙の生き物を全部殺しても地獄に落ちない、
ということになります。
どれだけこのお経はすごいのか、という、
まあ、いわば誇大広告のような感じの文言です。
私なりに少し深く解釈しますと、
三界、つまり物質の世界も、非物質の世界も含めて、
全宇宙の生き物を殺す、ということがどういうことなのか、
というところがポイントになります。
宇宙の生き物全部を殺すということは、
宇宙から生き物がいなくなるようにすることです。
つまり、宇宙の外に放り出してしまう、ということですね。
宇宙の外に何があるかといえば、涅槃、
そう、悟りの世界であり、輪廻から解脱した世界です。
生き物全部を悟らせ、解脱させる、ということですから、
地獄に落ちないどころか、自らも悟り、解脱を得る、
そんな結構な話ならば、殺してもよいどころの話ではない、
積極的に生き物全部を殺すべきです。
では実践できるかといえば、実践出来ないはずです。
ちょっとやそっとでは達成できないことです。
さて、せっかく解説しましたこの文言ですけど、
盛綱が唱えているのは、前者の意味の話です。
突き詰めると、「自分は悪くない」という言い訳になってしまいます。
そして、殺された子供の母親を自称しているこの女は、
本当に子供の母親なのか、
そこが私の「藤戸」の出発点となりました。
色々と統合した結果、時代設定のイメージを、
源平合戦よりも現代に近づけるアイデアが生まれました。
行き着いたのは、大正末期から昭和初期にかけての任侠の世界。
「鬼龍院花子の生涯」という映画をご記憶の方も多いと思いますが、
そのような世界をモデルにしました。
まだ現代人の記憶には残っている可能性のある時代であり、
今ほど任侠道に生きる人たちが迫害されていない時代でした。
これには、もう一つの目的もあります。
今の私たちは、現代化されたオペラの舞台に慣れています。
ドン・カルロがスーツを着ていても、違和感が少ないのです。
しかし、それは、作品が洋物であり、
服飾史に精通でもしていなければ、その時代の服装を
正確にイメージできたりはしないものです。
一方、和物については少し違います。
時代劇や歴史ドラマなどを通じて、ある程度服装のイメージがあります。
平安貴族の服装と、江戸時代の武士の服装の違いは、
ある程度イメージができるはずです。
源平合戦の頃の服装もある程度イメージできると思いますが、
それと「鬼龍院花子の生涯」の服装とは明らかな差があります。
そんな服装でありながら、「源氏が・・平家が・・」と歌っている、
そこにどの程度の違和感が生じることになるのか、
体感してもいただきたいと思っております。
すると、現代劇として「フィガロ」を上演していることが、
ヨーロッパの人間にとってはどういうことと感じられるのか、
少しでも想像していただけたら、というのも副次的な目的です。
普通の演出では、一同が前奏に乗ってしずしずと、
能楽の登場のような感じで全員が行進してくるのですが、
私は最初から少しショッキングな場面を作ることにしました。
盛綱と女の、ベッドシーンです。
もちろん、「女は本当に子供の母親か?」という疑問に
真正面から取り組んだ結果の設定です。
問いとしては「我が子を殺した男に抱かれることができるか?」
これを是とすれば、戦乱による人心の歪みと解釈できるし、
否とすれば、子供の話はダシであり、別の目的で近づいたのだ、
という解釈が成り立つわけです。
つまり、強請りたかりの類ということですね。
そのあたりの事情についての問いを投げかける、
そんな意味が、このベッドシーンにはあります。