ゲルハルト・リヒター展
東京国立近代美術館
2022年6月18日(土)
14 アブストラクト・ペインティング
リヒターのアブストラクトペインティングは、1970年代に始まります。抽象絵画の最盛期は過ぎています。盛った絵の具をスカージという道具で伸ばす、左官屋のような技法で描きます。絵の具を重ね伸ばし、削る。このシリーズは偶然性を持ち込み恣意性を排除したことで、エネルギッシュになっています。後でも触れますが、私はリヒターは筆で描くことを執拗に避けたがっている(スキージはいいらしい)、根底にそんな衝動があるように感じます。
6 グレイ 樹皮
色彩を使うことを拒否した時、絵画はどうなるのか。色彩のない単色、グレイの世界で何を描くことができるのか。このテーマでグレイ一色の作品をいくつも描いています。ここでは筆遣い、刷毛の跡を重ねて樹皮のようなテクスチャを作っています。この他にも画材の質感、カンヴァスの質感を変えた作品もあります。しかしリヒターが興味があったのは純粋な二次元平面だったようで、質感の追求には進まず、筆遣いの残らない完全なる平面、鏡を用いたシリーズに発展していきます。
21 ドイツの国旗
グレイのシリーズから手で描く痕跡を排除したらどつなるのか?
ガラスに描いてガラス側から見ればテクスチャーのない純粋な色彩の面が実現します。純粋な平面、それはリヒターの重要な結論だったようで、「ビルケナウ」の展示を構成する作品のひとつがグレイの鏡です。
そして描くことを排除すれば残る作業は色彩の選択だけになります。カラーチャートから3色を選ぶだけで制作したのが「ドイツの国旗」。
この作品を見て私が思ったのは「大変な遠回りをしてこれ?」。
しかし、これこそアートらしいとも言えますね。
34 4900の色彩
私がリヒターが描くことを避けていると感じたのはこの作品を見た時です。ドイツの連邦議会議事堂、ケルン大聖堂に用いた作品です。タイルのような色の組み合わせ、配置に同じパターンはありません。ランダムな色彩模様。これを壮麗なキリスト教のステンドグラスがあるケルン大聖堂に使う。
まったく絵画でない。宗教や美術の歴史を一切排除し、それでもその場所に違和感なく収まる純粋な形態とは何か。自らの意思も排除してただ存在するもの、その追究の結果がこの作品です。
1 モーターボート 第1ヴァージョン
リヒターというと、私のイメージは写真をボカシて模写するこのようなフォトペインティングです。西ドイツに移住して自由な社会に触れた結果、逆に主体的に作為を持って描くことに疑問を持ち、考え出したものです。
一般的には絵を描く場合、テーマを考え、構図を考え、対象を配置します。リヒターはそのような作業を排除にはどうすればよいか?を考えて、既にある新聞の写真など(この作品は映画のワンシーン)を撮影し拡大して模写するという手法に行き着きます。さらに刷毛目を使い対象の輪郭をぼかしその関係性を弱めています。普通絵画は視線が中心となるものに誘導されるように描かれますが、リヒターの絵はピントのボケた状態で放置されるような感じです。
制作のプロセスを間引き、ずらして、出来上がったものはしっくりこない。違和感に妙な共通性があり、だんだんとリヒターらしさが見えてきます。
31 ヴァルトハウス
フォトペインティングのようですが、自然の風景を描いています。建物の見え方も中途半端で素人の撮影した写真のように何を見せたいのかわからない構図。リヒターは自然を非人間的なものと考えています。母でもなければ、友でもなく、悪魔でもない。そのような見方は人間の思い込みでしかない。神々しい山並みでもない、神秘の森でもない。その自然観(?)を描かない手法によって端的に表現しています。
63 ストリップ
とても横に長い作品です。iPhone 13 Pro の超広角レンズの力を遺憾なく発揮して撮影しました。この作品も描いていません。絵画を縦に半分に分割することを繰り返し、細長くスライスしたものを、横に長〜くコピペしています。そう、この作品はデジタル技術を用いています。
完成した作品だけを見れば抽象表現主義にありそうなものです。この見た目を実現するのであれば、水平にたくさんの色彩の線を引いて描けばいい。しかし、そうはしていません。
リヒターは、何かを描きたいのではなく、どうやって描くかに興味がある。作品はその実験の結果でしかない。そして描くプロセスに自分の意思を反映しない。その徹底ぶりがリヒターの個性で、描いていて楽しいのだろうかと不思議に思います。
リヒターは、誰も疑問に感じていない創作活動の中にある見過ごされている何かを見続けています。
それを明らかにするために創作活動、いや、実験に地道に取り組んでいます。本質はアーティストではなく、科学者なのではないでしょうか。
いや、もともと芸術と科学は不可分だったことを考えれば、リヒターは本来のアーティストといえます。
アートであるもの、アートでないもの、その境界で最先端を探求し続けるアーティスト、それこそリヒターの本質だと思います。
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