国立新美術館にてダミアン・ハーストの個展を観て来ました。とても綺麗だったことは先日のコラムに記した通りです。

 

国立新美術館でお花見 ダミアン・ハースト「桜」(2022/3/6)

 

日本の春に相応しい華やかな桜の絵画を純粋に楽しんだ方も多いでしょう。

 

 

一方で複雑な気持ちで見た方もいたのではないかと思います。私も心の底にモヤモヤしたものがありました。前のコラムでは避けましたが、やはり書くことにします。

 

ダミアン・ハーストはイギリスを代表する現代アーティストです。

 

1988年にロンドン大学のゴールドスミス・カレッジに在学中に主催した自主企画展覧会「Freeze」において、サーチ・アンド・サーチ社の社長チャールズ・サーチに気に入られ、その後、潤沢な資金力でショッキングでセンセーショナルな作品を作り続けます。

 

ハーストの代表的なシリーズである生と死をテーマにした作品は本物の動物を使った大がかりなもので、例えば以下のようなものです。

 

「1000年」

A Thousand Years (1990)

ガラスケースに生の牛の頭と多数のハエを入れ放置。蛆は牛の頭を食べてハエになり、やがて死んだハエはそのままさらしている。


「生者の心における死の物理的な不可能さ」

The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living (1991)

鉄とガラスで作られた巨大な箱に、全長4.3メートルのイタチザメをホルマリン漬けにして浮かべたもの。


「母と子、分断されて」
Mother and Child Divided (1993)

牛と子牛を縦に真っ二つに分割しホルマリン漬けして鉄とガラスの箱に入れて並べたもの。
ヴィネチア・ヴィエンナーレに出品。


残酷でショッキングな作品は当然批判の的となりましたが、逆に話題にもなりました。実際私が憶えているハーストの作品といえば、このホルマリン漬けのサメを代表とする死骸を使った作品くらいで、実物は見たことがありませんがあまりいいイメージがないです。

 

そんなハーストが描く桜にどんなメッセージが含まれているでしょうか。

 

 

桜の樹の下には屍体が埋まっている。

 

そんなことを書いた日本人がいます。一種の妄想ですが何か説得力があります。

 

桜の樹の下には  梶井基次郎 (青空文庫)

 

この美しさの根拠は、死の裏返しであると。

 

桜はあまりに美しい。この一方的な比類ない美しさは世界に巨大な不均衡をもたらすはずだから、何かの負の代償がないと存在に納得がいかない。ではその代償とは?それは死である。

 

ハーストの作品には生と死を掲げたものが多く、その流れから考察すれば、死の対極である生の極みとして今桜を描いているのではないか。近くで見れば粗々しいアクション・ペインティングのタッチの奥に残酷な意図があるのでは?そんな連想もしてしまいます。

 

 

この桜について、ハーストのインタビュー映像があります。(公式サイトにて公開されており、展覧会会場でも上映されています。)

 

国立新美術館 ダミアン・ハースト 桜

 

ハーストは元々コンセプチュアルアートの作家です。絵画とはほど遠い立ち位置から、色の点を並べただけのドット・ペインテイングというコンセプチュアルな平面作品、ベール・ペインティングという抽象絵画、そしてついに桜のシリーズを手掛けるようになりました。作品の形態の変遷としては自然な流れに見えますが、アートの主義としては大きく動いてきました。

 

ハーストが桜を描いた動機は、子供の頃、母が油絵の具で桜の絵を描いていた記憶にあります。ベール・ペインティングを描いている時、奥行きを出そうと工夫していた色彩の集積が木のように見えたことから、抽象と具象の橋渡しとなる絵画、桜に挑みたいと思ったそうです。

 

インタビュアーが生と死をめぐる過去の作品との関連について話しを向けたときのハーストのコメントが興味深いものでした。  

 

「まあそうなんだが、なんだか妙な感じでね。この作品の原点は母の絵なのに、、、。

 ある人がこれを見て“恋してる?”と。もっと攻撃的な絵を目指したのに。でも確かに恋心が出てるのかも。」

 

ハーストの言葉にどこにも死に囚われているようなニュアンスはありませんでした。

 

私はハーストの桜を見た時、ただただ華やいだ桜を綺麗だと感じたのですが、考え出すとハーストの過去作品のもつ死のイメージが被って、複雑な気持ちになりました。

 

観る側がハーストの過去の作品に縛られて死と結びつけて解釈するのは思い込み、一種の偏見ではないか?アートを見慣れた人は、アーティストの出自、経歴などを把握して過去の作品を並べ、納得しやすい一本の線のようなストーリーを作ってしまいます。

 

現実の人間はロジカルな生き物ではないから、そんな明快な解釈には違和感があります。人間は時に忘れもするし、必ず過去に縛られる訳ではない。成長することもある、変わることも。

 

そろそろ東京の桜も満開を迎えます。桜の樹の下に屍体など埋まっていません。そんなものなどなくとも、毎年たくさんの桜が現実には咲き誇っています。自らの不安を消し去りたい、合理的な解釈で納得したい、それだけの理由で時に人は自らの作り出す妄想にすがりついてしまう。アートを見る者のリスクがそこにあります。

 

心の弱さを振り払い、平な心で目を凝らしたら。

 

ダミアン・ハーストの桜の樹の下には屍体が埋まっていると思いますか?

 

 
 
 
 

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