2021年10月1日から国立新美術館で庵野秀明展の開催が予定されています。
展覧会の開催記念ということで、今回は「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を取り上げます。
このコラムに取り上げようと思ったのはファイナルとなった劇場版にアートを感じたからです。
公開当時は庵野秀明監督がSNSでのネタバレ禁止のお願いをしていましたので、控えましたがアマゾンプライムで公開されている今ならもう気にしなく良いでしょう。
私はアニメファンでもありますので、最初のTVシリーズから多くのエヴァンゲリオン(笑)を観てきました。しかしアートを感じたことはありませんでした。一体何が違ったのでしょう。
エヴァンゲリオン、聞いたことあるけど見たことない、という方、大丈夫です。内容はあまり関係ないですから。
ざっくり説明すると、主人公の少年、碇シンジ君がエヴァンゲリオンというロボットのようなものに乗って、いろんなモノと戦い、勝ったり、負けたり、逃げたりして、最後にみんなを救うという物語です。
私がアートを感じたのはこの映画の序盤、壊滅状態になった地球で僅かに生き残った人々の暮らす村の風景が淡々と描かれるあたりからです。
緻密に描き込まれた景色が、1秒足らずのカット割りで、次々と続きます。
空中に浮かぶ巨大な浮遊物などSFアニメならではの超現実的な風景もあれば、日本の山間部の森、川などの自然の景色、そして人々の暮らす村の様子。破滅が迫る内側で長閑に続く牧歌的な日常。
独特の視点から情報過多な背景をこれでもかと押し付けられる違和感。他の人にこの場面はどう見えたのだろう。意味不明の場面に慣らされてしまったのか、長い時間をかけて学んだ膨大な周辺情報から物語を深読みしているのか。
私は現代アートの作品を見ているような感覚を覚えました。それは表現が結果的にアートの流儀に則っているからだと思います。
一般的な商業映画はストーリーを理解させるために絵作りをします。結果、シーンごとにわかりやすい表現は同じようなものになりがちです。最新作と言ってもざっくり3回目(TVシリーズ、旧劇場版、新劇場版)の映像化、主要なキャラクター、メカは共通ですから同じような絵に落ち着いてしまう。
ファンはそれが嬉しいこともあるでしょうが、作り手にとっては以前行ったことの繰り返しで作業になってしまう。そこに抗うためにギリギリまで粘ったのが最終作です。NHKが制作した庵野秀明の密着取材のドキュメンタリーにその様子が記録されていました。
人物のシーンでは俳優に演技をさせモーションキャプチャーで取り込んだ3Dモデルから視点を変えて新たなアングルを探り続ける。街のセットを実際に作りカメラで撮影してアングルを探る。決まったかと思いきや、御破産にしてまた探り直し。最終的に決定した時も納得している様子ではなく期限なので割り切ったという感じ。
こうして使い古した王道の絵作りと格闘して出来上がったのがこの最終作。見るべきものをただ観ることが出来ないと、脳の違うところが掻き回されて精神状態が変わってくる。ストーリーを追いかける状態から、映像から直感的に浮かぶ意味の断片をつないで感覚だけが残る状態へ。アニメ脳からアート脳へ。
更に最後はアニメからも物語からもはみ出していきます。絵的にもストーリー的にも既存の表現をぶち壊そうとする作者の破壊的な態度も、アートの進化の歴史にダブって見えたところです。
Amazonプライムの番組で、松本人志が庵野秀明にエヴァを観た後は美術館に行った後のような気持ちになると言っていて、やはりあの映像体験はどこかにアートな要素があるのだなと納得がいきました。
もちろん、エヴァはアート作品ではありませんが。
まもなく国立新美術館で開催される庵野秀明展はきっと、アニメの皮を被った特撮マニアの趣味の世界が展開されるでしょう。全くアートではないでしょうが、それはそれで楽しみです。
展覧会に必ず行きますのでコラムに書くつもりです。もっとも、次はアートコラムならないかもしれませんね。