クリスチャン・ボルタンスキーが

7月14日に亡くなりました。享年76歳。

 

不謹慎ですが、尊敬するアーティストの追悼文を書くことができ、ブログを書いていて良かったと思います。一人でガッカリするだけでは何か欠けている、だから書かずにいられない。そんなものです。

 

 クリスチャン・ボルタンスキーを初めて観たのはいつだろう?日本での作品を観る機会も多いので思い出せない。作品にある特性は

 

・観るものを深い考察に導くしかけ

・テクノロジーを駆使して五感に働きかける表現

・深層心理に働きかける空間づくり

・周囲の環境と集められた情報の重層的な構造

・作品が纏う厳かで宗教的な雰囲気

 

作品ごとに深掘りしたいアーティストで、いずれは取り上げるはずでしたが、初回が追悼文になってしまい残念でなりません。直近の国立新美術館の展覧会が2019年、このブログには間に合いませんでした。

 

印象に残っているのは、瀬戸内国際芸術と大地の芸術祭。昔のスマホ、デジカメを引っ張り出して画像を漁りながら当時を振り返ってみました。

 

・心臓音のアーカイブ(2013年8月、瀬戸内国際芸術祭、豊島 唐櫃浜)

 

瀬戸内国際芸術祭の豊島の作品群の中ではぽつんと外れた場所にあります。建物内の撮影はNGなので外観の写真のみです。たくさんの人の心臓の音を録音してアーカイブしており来場者に聴かせる施設です。中は研究室というか医務室というかそんな雰囲気があり、インスタレーションの鑑賞は定員のある交代制。中に入ると薄暗い奥行きのある防音効果が高い部屋で静寂からインスタレーションが始まります。何処からか心臓の鼓動の音が聞こえてきます。この音に合わせて部屋の灯が明滅します。雑音もなく闇の中で次第に大きなる心臓の鼓動は生々しく、母親の胎内に戻ったか、死の瞬間の感覚か、何かが見えてきそうな、とにかく観るだけのアートではできない特別な体験ができます。

 

・ささやきの森(2013年8月、瀬戸内国際芸術祭、島 唐櫃岡)

この作品も豊島の他の作品とは離れた場所、森の中にあります。この森に400個の風鈴を吊り下げた環境型の作品です。風が吹くと一斉に風鈴が音を鳴らすのですが、私が訪れた時は風が吹かず風鈴がほとんど鳴らなくて、ささやきも聞けず残念でした。これも作品のひとつの姿とはいえ、天然ジョン・ケージの出番は無くて良かったです。

最寄りのバス停からかなり離れていましたので場所の選定と制作のためにボルタンスキーはどのくらい歩いたのだろう?と想像してしまいました。

 

・最後の教室(2015年8月、大地の芸術祭 )

廃校を丸ごと使ったインスタレーション。窓を全て塞いで暗闇にした屋内はお化け屋敷かホラー映画の悪夢のようです。建物は確か三階建て。廊下や階段も作品になっています。

 

メインの展示は一階の広い講堂のインスタレーションです。外光の入らない暗い屋内に無数の電球がぶら下げられベンチと扇風機がいくつも置かれています。目が暗闇に慣れると、星々のような電球の輝きが見えてきて、ブオーッという扇風機の音と風を感じます。そして思いのほか多くの人が周りにいたことに驚きます。夏の夜、皆で星空鑑賞するような気持ちと言いましょうか。中の様子は目には見えても暗くて撮影は出来ませんでした。電球だけなら写るんですが。正直、今でも扇風機の役割はよくわかりません。ない方がもっと入り込めるような気がしました。

 

 

長い廊下を奥に光る何か目指して、暗い闇の中を歩くのは、心の奥にある深い迷路で彷徨い続けているのか、遥かな旅の希望の終着点を目にした瞬間か。何らかのメタファーを観念的ではなく、体感させて伝えるのが表現として秀逸。

 

 

この部屋は壁中にパネルがたくさんかけられランプがゆっくりと明滅します。何も見えなくなる瞬間、人間は自らの想像で虚無を埋めるしかなく、結果作品は外部の刺激から自分の内面の活動に強制的に変わるのです。

前述した心臓音のアーカイブのインスタレーションの部屋の内部もこんな感じでした。

 

 

三階は全ての部屋を使ったインスタレーション。灯りと白い布、透明な箱が一面に並べられています。ボルタンスキーの作品としては明るい方です。灯りも明滅しません。天国のように神々しくもありますが棺が並べられているようにも見え、死や命が主題にも見えました。

 

 

 ・アニミタス(2016年12月 東京都庭園美術館)

 

 

 風鈴使った環境型作品の映像を使ったインスタレーションです。確か展示室の中央に立てたスクリーンの両面に映像を映しています。片面は前述した豊島の森の映像、もう一方は何もない広野に風鈴の設置された映像。アニミタスは「小さな魂」を意味するスペイン語で、風鈴を用いた屋外作品は最初「アニミタス」というタイトルで死者を祭る祭壇のオマージュとして作成され、場所を変え世界中で作品化されました。庭園美術館の展覧会は亡霊との邂逅が主題となっていたので、この映像は死者たちのささやきとも言えます。日本人にとっては自然の中で死者と会うのは毎年お盆でご先祖さまと出会うのと似ていて、亡霊というより馴染みのある型な気がします。

 

 

・「ぼた山 」「 スピリット 」「発言する」

(2019年8月、国立新美術館)

 

 

国立新美術館の展覧会は古い作品から新しい作品まで揃えた充実したものでした。写真は撮影OKの展示室で暗く見にくいですが3つの作品が写っています。

 

中央の巨大な円錐型の塊は「ボタ山」という作品。これは集めた衣服を積みあげたものです。誰かと人生を共にした物が廃鉱の捨石よろしく高く黒く積みあげられているのは、誰かにとって必要だったものが無価値となったということであり、文明の中の人間の価値の扱われ方を暗喩しています。

 

天井は「スピリット」という作品。ポートレートをモノクロで大きくプリントした布を吊り下げたもの。確か現在は生存していない方々の写真だったと思います。少し透けている布の質感が魂という見えないものの不安定な存在感を象徴しています。ボタ山とセットで考えると、現代社会が人間を大切に扱っていないという側面を切り出していて気が重くなります。

 

手前のランプの人型っぽいラックのようなオブジェは「発言する」という作品です。人生において死に直面した時の気持ちを読み上げた音声が流されています。この展示室内にいくつも設置されていてそれぞれ人ごとに違う気持ちが綴られています。

 

こうして見るとこの展示室全体が魂の通り抜けた残穢でできていると言えなくもない。この年のボルタンスキーは亡霊という言葉を使っていたので、ネガティブな解釈をしてしまいますが、死にまつわるものを取り上げる作家であって天国を描く作家ではないのは確かでしょう。ボルタンスキーは無宗教ですが西洋美術家らしく「メメント・モリ」な見方をしていたのかもしれません。

 

 

 ボルタンスキーの作品はどれも重みがあるので時の速さに流されがちな心を引き止めて、自分を見つめるきっかけになります。変化が早い時代を迎えた今こそ、まだまだ活躍して欲しいアーティストでした。故人のご冥福をお祈りいたします。