みえないものに、がいねんをあたえ、
あんじをあたえ、げんじつかさせる。
びたみん、げんし、りゅうしなど、
めにみえないが、そんざいをかくしんする
せいぶんがある。
かがくは、
めにはみえないものにかたちをあたえ、
あんじをあたえ、きせきをおこしている。
「がいねんをつくる」
それは、かがくのはってんにおいて、
じゅうようなことである。
しあわせのがいねん、のそうぞう。
てれびや、いんたーねっとなどで、
りそうをげんじつかする。
かがくは、がっこうでみんながならう。
「しゅうだんてきむいしき」
にはたらきかけられる。
てれびや、いんたーねっともそうだ。
「しゅうだんさいみん」がかかる。
「ひきよせのほうそく=どうちょう」
でげんじつかする。
だから、
「ぜんりょうなこころ」がもとめられる。
「ぜんていをまる」にしないと、かがくは、
まちがう。
「かがくあい」は、
じんるいのこうふくをもとめ、
ばんぶつのしあわせ、
うちゅうのしあわせをいのる。
そこには、にんげんあいがあり、
かぞくあい、きょうだいあい、
しんゆうあい、れんあいがある。
「あい」のおしえは、くにをこえ、
せかいをこえ、うちゅうをこえていく。
くにがいえであり、せかいがいえであり、
うちゅうがいえである。
そこには、にんげんいがいも、すんでいる。
「ばんぶつのれいちょうるい」として、
それらをまもっていく、しめいがある。
「すべてがかぞくである」
にんげんのあいが、すべてをみちびく。
「あい」あってのにんげん、
「あい」あってのせかい。
かがくを「あい」をもっておこなう。
どうりにあったおこない、
こうどうのけっか、こうふくである
おこない。
それらがもとめられる。
かがくを「きせき」とらおもうなら、
あとは、
「あい」がぬけないようにするだけである。
じゃくしゃをいたわり、
ともにてをたずさえ、ささえあうせいしん。
こどもがろうじんに、てをさしのべ、
いっしょにわらいあう。
しあわせのばとんりれー。
ろうじんのなみだが、
こどもたちのなみだが、
きずなのつよさをものがたる。
せんねんも、まんねんも、
うまれかわってもなお、
たがいにささえあい、
しそんはんえいをみまもっていこう。
「こどものえがおは、みんなのたから」
おとなではなく、「こどもをきじゅん」に、
かんがえれば、かがくはまちがわない。
こどもあってのみらい。
ろんじんあってのいま。
そのことをわすれてはならない。