今年ももうわずかですね。

仕事納めとか、TVも特番とか
日常からはだんだん離れていく。


寒さや疲労を言い訳に自宅でだらだら、体調管理している、そんなつもりのエロオヤジです。


ひとりで縁側でのんびりネットラジオで
ジャズを聞いていて変な感覚を思い出した。



入院中のことだ。


ワケも分からず大変な病気の告知を受けて、入院生活を強いられた。

地元の病院に入院し、専門治療のため転院する。当初は血液内科に入院し、多発性骨髄腫をとりあえず抑え込む為に、放射線治療と化学療法を始めた、と今は理解している。

当時は、冷静を保とうと足掻き、意外に記憶が曖昧である。

残された治療計画書から読み取ると、多分、そうだろう。

日常は、病的骨折して30度までカラダを起こすことを許された寝たきりのベッド生活で、食事も排泄もベッド上だった。

そもそも寝たきり生活もストレスだったが、告知された病気を受容することに足掻き回る自分の感情自体がストレスだったと思う。思い起こせば、受容という行為や思考、感情のコントロール自体がかなり孤独な行為だった。おそらくは、病棟スタッフはかなり精神面の観察やフォローはかなり尽力されたのだろうが、残念ながら記憶が無い。


ある程度、病気を抑え込んだ段階、多分ギリギリでも一応安定して、整形外科へ病棟が変わり、病的骨折している腰椎の除圧のオペとなります。

背中を大きく切開し、圧壊した腰椎骨から飛び出した骨髄腫を除去し、上下の椎骨にプレートを固定し、神経を圧迫から解放し、下半身麻痺に至らないようにするオペ。

オペは、術的には成功し、個室にもどる。
麻酔から深夜に覚め、当直のナース君が下肢の感覚チェックで、下肢麻痺が発覚し、再度オペとなる。

ついさっきまで、オペ室にいたオペチームが呼び戻されて、再度オペ。
麻痺の原因は、想定以上の出血で、ドレンでは体外排出処理しきれず、出血が神経を圧迫して麻痺を引き起こしていたとのこと。出血箇所に蝋を詰め、出血をコントロール。再オペは一回目以上に、身体へは負担となった。
でも、再オペで寝たきりは回避できた。



前振りが長くなったが、思い出したのは、この後の二週間に渡る個室生活である。

当初のオペプランでは、オペ後、順調なら一週間ほどで大部屋に戻り多発性骨髄腫の治療とリハビリが本格化する予定だった。

個室に一週間、まあ寝たきりでも我慢できるだろとタカをくくっていたが、再オペの結果、安静期間が延長となる。病気に加えオペ後の出血も加わり全血での輸血量の累積も増してゆく。治るのだろうかという僅かな不安が、大きな疑心暗鬼に変化すらする。


個室に三日、四日、だんだんと孤独とストレスに精神が崩れて行く。
強気になったり弱気になったり。

決まった時間に決まった医療行為で訪室するナース。行き場の無い感情はナースに向かう、最悪の患者だろう。


ストレスや時間管理もできない孤独な感情。当初の計画の一週間を過ぎても変わらぬ医療行為。


増幅していく、孤独感やストレス。
壊れかけのオイラの感情は、主治医に懇願するしかない。
多分、それまでの生涯で表現したこともない言葉や態度で離床やホンの僅かな自由を懇願したに違いない。それが叶うときは、それまで費やしたありとあらゆる努力や時間などの全てが水泡に帰すことも省みずに、、、。

オペを担当してくださった整形外科の主治医は毎日根気良く応対され、二週間、大部屋に戻り、車椅子の許可を受けたときは、全てから解放された気分だったことを覚えています。戦っていたのはオイラだけじゃ無いのに、、、。



今日は、縁側でのんびり過ごしていました。情緒的で穏やかです。

明日明後日は、バイトです。

今日は、明日明後日のバイトのために、養生している。今日があれば、多分、明日明後日がある。そう思える。



多発性骨髄腫って厄介な病気をカラダに飼い続け、なかなか言うことを聞いてくれないヤツには高額な薬ってエサを買い与え、買い与えるために体調管理し、バイトをする。ま、バイトは、社会との大切な接点でもあるのだか、、、。



あの整形の二週間は、その後の自家移植の個室生活をずいぶん自由な生活に変えてくれた。事前の情報以上に自由に感じたし、限られた狭い空間ながら実際に自由だった。



入院とは孤独なものだ。

同病で今も孤独と戦っている方もいる。
歯痒いが何もして差し上げられない。
症状も治療方針も皆さまざまだし、自ら克服するしかないのだろうから。
でも、些少でもお力にはなりたい。
そう思える。


オイラは、、、まだ、自由だ。


感謝を忘れない。


みなさん、頑張りまっしょい‼︎