生きること、生き方に迷うことに怖さを感じるが、良く考えてみると生き方に迷ったことが無い気がする。

 オイラの周囲の方々には只ならぬ迷惑をかけていることに、あらためて気づいた。

 生き方に迷ったことが思い当たらないと言うことは、どれほど楽天的で即決短気で刹那的かと言う実態の象徴だと、あらためて気づいた。

 で、あるからして、何にしても幸せモノである。

 人を疑うこともなく、騙されたこともなく(オイラが気づいていないだけ?)安穏と生きてきた。ただ、安穏と生きてきたワケではない。
 オイラのことを良く知る友人や先輩は、オイラを評して必ずこう言う。「器用貧乏」。

 オイラが幸せを感じるのは誰かの笑顔に接したときや、感謝の気持ちを向けてもらえた時である。

 祖母の教えでもあり、修証義の教えのひとつでもある感謝の気持ちは、ずっと周囲に向け続けていられたことは、自身自負するところでもあるが、唯一汚点があり反省している。
 今般、多発性骨髄腫と言う病に取り憑かれ第6胸椎を病的骨折した一昨年、仰角30℃に制限され寝たきり生活を余儀なくされた時、遣り場のない感情を入院中の病棟スタッフに向け困らせたことだ。当然悟りを開いた仏のような人物ではないので、端から見れば当然の情動表現だし理解もされた。そんな状況でも何かに感謝しろと言われてもムリなことである。

 そんなことに、気づかせてくれた担当ナースさんに感謝だし、気づくことができた自分が幸せだと信じていられる。

 病に堕ちたオイラだが、以前よりもまして変わらず遊び心を向けてくれている野郎どもにも感謝である。

 福祉の仕事に奉職した30年前、そんな昔、「福祉」と言う言葉を調べたことがある。確か広辞苑だったと思う。「福」「祉」も幸せの意味とあった。示辺(しめすへん)で作られる「福祉」と言う言葉に神聖なものを感じた当時の気持ちは今も変わらない。

 誰かの笑顔に接し、誰かから感謝の気持ちを向けられ、幸せモノだと感じる。些細なものにも有り難いと感じられる。
 オイラの「福祉」と言う仕事に向き合う原点でもあり幸福観でもある。






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