変態オヤジを自負するオイラがオイラ自身について語るのはこのブログでは初めてかもしれない、以前のワンブロでは上げた記憶がある。自身のアイデンティティを見つめ直すには良い機会だと自分では思いこんでいる。

 オイラの親父は田舎寺の末の男子の生まれで先天的な聾唖である。幼少から陽気な負けず嫌いな性格と持ち前の器用さとケンカの強さで、今でも同年輩の地域の皆様の語り草で、どれほど愛されていたかが伺える。そんな親父も今年33回忌である。
 母も先天的な聾唖である。幼少に口話を修得しわずかに残った聴覚で辛うじて会話ができた。親子の会話は絶えず大声で家の外でも聞こえ、ともすれば始終親子ケンカしているように聞こえたに違いない。親父を亡くしまだ学生だったオイラ達兄弟を育った偉大なそんな母ももうじき20年になる。オイラは親父にも母にも孝行ができなかったまさに不肖の愚息である。

 親孝行とは生きているうちにするものである。

 そんな両親は結婚し寺の近くに分家(新家)として世帯を構えた。ほどなくオイラが生まれ、トシゴで弟が生まれる。両親が聾唖であることもあっただろう。オイラはとにかくおばあちゃんっ子だった。祖母は住職の母として寺を守り、威厳と無類の優しさと愛に満ちた女性だった。
 オイラは中学生になると祖母の勧めもあって地域の道普請や河川保持に参加した。地域では一括して道路奉仕と呼び、用悪水路や河川の草刈りなどの公益の労務を奉仕と言う形で提供し今でも続いている。行政に頼らない行政の原点のような仕事だ。田舎寺や両親がいかに愛されこの地域で暮らし、支え合って暮らしているかが良く理解できた。地域福祉の姿がそこにあって、その記憶がオイラを支えた。
 とにかくオイラはおばあちゃんっ子で、それに加えて両親はオイラには過保護だった。「聞こえない」そんな障害が過保護にさせていたに違いない。祖母も障害のある我が子に対してはたしなめることもはばかられたのだろう。
 一方では、手話も覚えた。当時の手話はまだ体系化されてなく、身振りに近い。小学生の後半には両親に付き添って役所や選挙の立会演説の通訳をしていた。小学生がオトナな下世話な言葉を通訳するのは、今でも辛辣な記憶だ。そんな通訳をしているとオトナのダブルスタンダードが理解できた。
 あらためて思うのだが、オイラには反抗期が無かった。オトナのダブルスタンダードに挟まれ、両親の期待に応え、よい子を努めてきた、まだ無垢だったオイラには反抗期は無縁だった。
 オイラと似たような境遇の従妹の心理的な精神的な成長みたいなものが気がかりになってきたのは中学3年。成績は悪く無かっが、進学校は選ばなかった。
 奔放に遊んで学んで、自由な校風が魅力的だった離れた県立高校を選んだ。
 入学して直ぐに三年生の彼女ができ、夏休みが過ぎて終わった。男子の全てを学んだ夏休みだったね(笑)

 とにかく進学は希望していて、密かに第一希望は愛知学院大学においていた。

 高校三年生になって、彼女ができた。それまではとっかえひっかえみたいな友達止まり。新しい彼女は才媛でもあったが、オイラ同様に自由奔放で天真爛漫だった。放課後の教室で勉強したりいちゃついたり。当然学校中のウワサになったが気にしない。が、夏休みを前に駐輪場でいちゃついているところを教師に見咎められ、謹慎処分の危機を迎えました。双方の親が呼び出され注意を受け、職員会議にかけられた。自由奔放な校風は生きていて、ある条件で謹慎は回避された。
 彼女は学年では3本の指に入る才媛、オイラも一桁まで順位をあげ維持していた。双方第一希望の大学にストレートに合格したなら無罪放免、どちらかが失敗した場合は即留年と言うギャンブル。これを双方の親が了承してしまう。学校が学校なら親も親だ。
 実はこの頃、オイラ達は結婚を意識しはじめ、オイラは愛知学院大学よりランクの低い在東京の某大学に第一希望を変えて届けていた。夏休みの夏期講習も同棲みたいな1ヶ月だったが、結果二人は無事に第一希望に合格した。実は愛知学院も補欠入学できたがオイラは選択しなかったし補欠の件は誰にも話さなかった。今思えば、補欠入学を選択していたら、従妹の人生も変わったのかも知れない。

 こうして大学に入り、彼女との半同棲はスタートし、サイクリング部に入り、新歓コンパの夜に彼女の元に帰ったオイラは親父の訃報の電報を受け取ることも出来ず、親父の死を大学の学生課に呼び出されて知ることとなる。


 親不孝にもほどがある。


 戻っても周囲の目は蔑み、いたたまれずオイラは本葬直前まで姿を隠してしまった。







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