お世話になったご住職を知っていた、じぃちゃん先生。


「あの先生すごい方でしょう。神通広大で見通しがきくお坊さんやったね」


聞くところによると、じぃちゃん先生の父親がまだ存命だったとき、晩年に信仰に目覚めたお父様が、その時にお世話になっていた方という事だった。


このご住職と直接の交流はなかったものの、実家の神棚や仏様の灌頂に来て頂いたりと間接的な関わりがあったとのことで、もう何十年と随分昔の話だけね、、と懐かしそうに話してくれた。



そのお寺と、じぃちゃん先生の住まいは遠い距離にあったにも関わらず、何十年も経ち、じぃちゃん先生と知り合った私がまた縁を頂いて繋がる。


縁ってどこまでも不思議だ。



自分の直感が大丈夫と感じていた為、このご住職が、信頼できる人であるかどうか心配はなかったが、じぃちゃん先生の言葉に更に安心する。



自分の場合の救いは、一見判断が難しい世界の出会いにおいて、悪人や詐欺師のような人に当たったことがほとんどなかったという事に尽きる。


その世界で本物と言われるような人に繋がることが多かった。


先祖供養や水子供養などは、宗教に絡んだ詐欺に一番多い格好のラインナップだ。



インターネットが当たり前の現代で、まず探す手段の一番先にくるのがネットだ。




今の時代、個人であろうが事業主であろうがSNSやHPをみんな持っている。


こういった目に見えない事を扱う人や、お寺などネットで大々的に宣伝しているところは、まず疑った方がいいと思う。


本物と言われる人はまず、ネットの世界では活躍していない。



まず1に単純に忙しいからだ。天から仕事を貰う、役割がある人は、ずっとその仕事に従事している。余暇もほぼない。



次から次に依頼をされたり、困っている人が訪れるため、ネットに力をいれる時間もなければ、宣伝などもする必要がない。

 

出していても所在を知らせる程度か、または静かに行事の告知を行われていたりするだけが多い。


また、顔を出す事はほぼしないところが多い。


当たり前だが、自分の活躍をアップするなどはありえない。



スピリチュアル好きな方や、仏教が好きな方などが、トンデモ人物やトンデモ寺をフォローしているのをよく見る。


これは占い師さんにもすごく多いので、たまたま見てしまうと思わず、老婆心で余計な事を伝えそうになる。

もちろん実際にはしないが。。


きっと本物だと思ってフォローされているのだと思う。


ネットの記事や文章の雰囲気で、見分けるのは本当に難しいと私も思う。




以下、参考にされてみて下さい。


https://kansindo.com/blog/?p=3109

一番良いのは自分で学び、たくさん知識を得ることが大切。







自分の場合は、昔からその人の目の奥を見ると直感的に、人となりや人間性を感じ取ることができた。


霊感などは全く皆無の、ゼロ人間だが、人を見抜く力は高いと多少感じている。



昔、お世話になったお坊さんがいた。

その人の横に座るたび、向いている方の腕が針を刺された様に痛くなることが頻繁に起こった。


決まって毎回横に座ると、刺される様な痺れるような痛みが続く。

離れるとなくなるのだ。


のちに色々問題がある人だという事がわかり直感というより、肌で警告を感じていたのだろうと思う。


反対に、その人は私の目を絶対に見なかった。

それは他の人にも指摘されたことがあった。  


見透かされていると感じていたのではないか?と。



さらに時間が経ち、実際はサイコパスの様な方であったと、のちに様々な話を聞いてゾッとした。


初対面の時、その人の目を真っ直ぐ見れなかった為、初めから、やばい人だなと感じていたにも関わらず、肩書で自分の直感を無視した結果だった。


当時は自分もまだまだ未熟で、とても痛みを伴う経験だったが、直感に従うと、おかしな縁は自然と切れていった。






さらに、以前占術の勉強でとある有名な先生とZOOMで対面した時も似た経験があった。

初対面で目をみた瞬間、見ていられないほど嫌なものを感じ取ってしまった。


言い方は悪いが、人を見下して、ふんぞり返っている姿が伝わり早く画面を閉じたくなった。

まだ話し出す前で、その先生は画面越しに真っ直ぐ座っているだけだったが、目を見てすぐにわかった。



有名な方ではあったが、人間的に尊敬を集められている方ではないのかもしれない。

そう思っていたら、そののち、ひどい仕打ちを受けた生徒さんのお話を聞いたり見たりした。


初めに直接顔を見ていたら、自分なら受けないと思った。



どちらの方も言葉や目に、温かさや優しさの念がなかった。



目は口ほどに物をいう。

目の奥に厳しくとも、暖かみがない人はダメだ。


目は、その人の魂や本質が必ず出ると感じる。


皆、どこかでそういった事を感じとってはいるが、心情や取り巻く状況にまみれて判断が複雑になっている様に思う。


だから一時の私の様に見誤るのだ。

人間は動物的勘を信じるべきだと勉強した出来事だった。








話が少しそれてしまったため、戻します。


枯れかけ、こうべを垂れていた高野槙が、元気に伸びてきた。


これは2週間たった高野槙。ニョキニョキ元気だニコニコ





自宅で供養を続けていくことしばらく、高野槙も元気に新芽を伸ばして回復してきた。

たまたまかもしれないが、吉祥に感じた。


毎日、光明真言に至っては、108回と必ずあげる様に仏様に誓い行っていた。

念珠一周分だ。



ご住職の祈りのおかげもあってか、あれだけバチバチ勤行中に鳴っていた音も、気がつけばほぼなくなったいた。


父親に至っては、安定剤を日に何個も飲む生活だったが、明らかに服用する回数が減っていき、最近は、朝、夕と1日2回せっせと畑に行っている。



以前は、数日寝たきりの日も多かったため、そこから比べると明らな変化。



因縁の供養は、魔法の様に、パッと改善するものでもなければ、簡単に解決する問題でもない。

しかし、確実に光明をもたらしているのはわかった。

少しずつ、少しずつ。



そして、驚いたことに自腹で支払った、永代供養の数十万円が自分の元にきっちり返ってきたのだ。

これには本当に驚いた。