ご住職に初めて会った時、父親が原因不明の体調不良だということだけを話した。


すると間髪いれず、すぐこう言い放った。


「もうねぇ、これは、あんたとこのご先祖さんをどうにかせんにゃ、どうにもいかんわいな。」



あぁ、やっぱりそうか。


そこまでは、想定内だ。

今までも散々四方八方言われて来たのだ。


しかし、この人は霊視の速さが恐ろしく早い。

今まで、色々な人と出会ってきたがこちらが、話終わる前に見通してくるのは初めてだった。



そこからが、さらに驚いた。

ご住職は続ける。


「あんたの、おばぁさんいるやろ。祖母にあたる人や。そのおばぁさんの母親、そしてその家系な。ほんで、あんたのお母さんの家系。問題になっとんのは、この2つや」




祖母の家系のM家

私の母の家系のN家



まさかであるが、そこに、私の姓である、あかり家はなかった。

これには心底驚いてしまった。



聞くと「あんたとこの家系は歴史がまだ浅い」との事だった。

このおじぃさん・・一体どこまで見えているのか。


話し方からわかったのは、このご住職は、様々な事がわかっていても、恐らく伝える内容は要点だけだ。余計な事は伝えない人だと何となく空気で感じ取れた。




家系にまつわる因縁というものは、決して一つではなかったりする。


いくつかの因縁が複雑に絡み合っていたりするのが通常だ。



以前、どこかの記事で書いたが、友人であった人が霊視した時にわかった事実を書いた事がある。


私の曽祖母は昔に村で金貸しをやっていた。決して守銭奴ではなく人助けとしてやっていた。


しかし、借りた村人が返済が出来ない事を病み、最後に自害してしまった。


その人は、体の片側が水に浸かった状態で亡くなった。父親はその亡くなった方と同じように、体の片側に症状が出て、その人は亡くなった当時、寒くて震えていた状態だった様だが、それがそのまま父親に現れていた。


その金貸しをしていたのが、まさにM家の人である曽祖母だ。


恐らくこのあたりが、様々な因果が絡みあっているのだろう。お金は特に因縁が絡む。そして尚重い。


それをわかっている人は現金を触らない。余談だが占い師なども現金で頂くのはできれば、やめた方がよい。可能なら振り込みなどにしてなるべく触らない方が良い。

のちに後述するが、今回、このご住職永代供養の費用をお渡しする際もはっきり、「わしはお金は触りたくない。悪いがそこに置いてくれますか。」と仰られた。


久しぶりに聞いた。

これを言う僧侶は多い。


お金は想いが乗るため、負も大いに運んでくる。


そんな事を言うと、お布施を頂く時どうするんだ?と言われそうだか、仕組みをわかっている行者や僧侶は触らない。





話は戻り、住職に指摘された問題となっている原因を詳しく書くとこうだ。     


・曽祖母と、曽祖母の実家であるM家が問題になっている

・私の母親の実家であるN家が問題になっている(母方側はのちに記載)






この2家は今まで、先祖供養や施餓鬼供養などを行っていたが、メインはあくまで自分の姓である家系だった。


供養漏れは絶対にある。




言われたこのM家は、私からすれば遠い親戚筋でほとんど知らない家系。

知っているのは、去年の見送った叔父さんだけだった。


そう、去年警察から亡くなったという連絡を貰いその後、諸々の手続きを行なったあの叔父さんが、M家なのだ。


叔父さんは、問題になっている私の祖母の弟の子供にあたる。

曽祖母からすれば孫だ。



少し小さいが走り書きで表にしてみた。

見辛いサイズで恐縮です。




現在唯一知っているM家の、この家族は、ものすごく因縁深い家族だった。


精神疾患がとにかく多いのだ。ご両親、叔父さんの弟と。

今思うと、この叔父さんが唯一この家族の中での光だった様に思う。


叔父さんは、大変なご両親を看取ってからも、精神疾患で30年近く

病院に入っている弟さんの面倒を見ながら生きてきた。


どう考えても苦労人だ。



今まで...どんな思いで生きていたのだろう。


去年荼毘に伏す際に、ふとそんな事を考えて胸が苦しくなったことがあった。



このM家と、我が家の祖母側の先祖のお墓は修験で有名な奈良の某村だ。


祖母が生きていた時は、お盆や年末など、叔父さんの実家であるこのM家に親戚一同で帰省していた。


しかし、祖母が亡くなり、私たちもやがて大人になると、ほとんど付き合いはなくなった。私はこの曾祖父母含む、祖母の母方である方のお墓参りには、かれこれ30年ほど行っていなかった。

その内、お墓がある場所の記憶も薄らいできていた。



そんな中、父だけが唯一、叔父さんを気にかけ、たまに連絡をとっていた。



去年、叔父さんの遺体を引き取り、書類やその後の諸々を行っていた時、私はうっすら、この家の仏事、お墓参りや管理などに関わっていかねばならないのではないか・・・とそんな予感がしていた。



残された弟さんは、障害者で病院から出る事はもうできない。


他に墓の管理や、参る人は恐らくほぼもういない。





また関わるのか?既に何十年と、そこまでの付き合いはなかったじゃないか、、叔父さんの、ご両親に関しては記憶も薄い。


自分の側の事情もあり、あっちもこっちできるわけがない。


またあんた一人でやるの?


いやいや、最後を見送ったのは私たち。関わったこと、そういった事に気がつくということ自体、因をもう持ってしまっているじゃないか。


叔父さんたち家族のお墓は、忘れかけていた先祖のお墓と同じ場所にある。



色々な考えが沸いてくる。


.

.

.



いや、帰依している身で神仏に手を合わす人間が、すでに関わりが薄いからと、もう知りませんよ。と放置されるお墓をほったらかしにしていいのか.....




答えはNO。



いつもそうだが、この心に湧いてくる直感の様な疑念はあとあと、必ずと言っていいほど表面化して目の前に現れる。

心で「そうした方がいい」という気持ちを無視したらダメだ。




思い返してみると、ここに行き着く流れは去年から始まっていたのだ。


去年の8月から。



物事には、たまたまや偶然はなく全て繋がっていると生きてきて、痛感してきた。


物事は起こるべくして起きている。


川の水が自然と下(しも)に流れる様に、勝手気ままに流されている様に見えても、ある目的がある方に流転している。  

人生はその繰り返しではないか。

少なくとも私はそう思う事が多かった。


去年たまたま取った行動が、今回に繋がっている。

そう思った。