先日、高野山から立里荒神へお詣りへ行ってきました。
雨が続いていた週でしたが、この日の午前中は晴れ
高野山駅から見える橋本方面
足元は簡易のアイゼンをつけて登ります。
本殿も雪化粧⛄️
大天井ケ岳、山上ヶ岳、大日山、稲村ケ岳など
前回のお参りから、随分たってしまいました。
去年の4月頃、春の結縁灌頂があった日でした。儀式後にお参りした帰り道、土砂崩れに遭い、あいにく片側だけ車が走れる幅があった為、問題なく帰宅できましたが、その後すぐ再び土砂崩れが起きた様で、その後も数ヶ月間、龍神スカイラインが閉鎖されてしまいました。
開通した頃、叔父さんの件で連絡を貰い、喪中になってしまったので、1年近くお参りができませんでした。
その間、自宅の神棚も閉め、喪が開けたのが新年のタイミングでした。
今年、無事に来られた事に感謝。
祈願は家内安全と日本の安寧、そして人との縁についてお願いしました。
私自身、今年から大限、流年は特に奴僕宮での苦労が大幅に増える傾向があります。
今までは新しい人との出会いや、コミュニティなど人の輪に飛び込む事を躊躇無くしていたのですが、去年あたりから奴僕宮の影響を実感することが増えてきたこともあり、しばらくは人との交流を最低限に、鑑定に集中しようと決意。
元々人が好きなので、なかなか難しくもありますが
先日、募集した鑑定ですが、少しずつお会いさせて頂いています。
現在こちらの募集は一旦締切させて頂きました。ご連絡下さった方、ご都合が合わなかった方、皆様ありがとうございました。
鑑定では、表には出していませんが、本名をお伝えして下さった方で希望された方には、姓名判断もさせて頂いています。
名前は親から貰う、身体の次に授かるものです。
人は母親の胎内に宿った時に、すでに宿命が植え付けられていると私は考えています。
そして、オギャーと生まれた時に、あの世または前世との関係や血縁・その人個人のカルマの課題に沿った生年月日で生まれ、宿命に沿った名前を授かります。
言葉に魂が宿るのと同じで、名前にも画数だけではなく音(音霊)が宿ります。名は体を表すと言う言葉がありますが、この世での個人を形成するのに、生年月日や名前など、その方にしかない備わったもの(体という器や能力、環境、天分)が決められ、授かったギフトと言える物は、1つの狂いもないのだなぁと思います。
しかし、人間的な希望的感覚でものを見てしまうと、もっとこうだったら良かったのに、もっと環境がこうだったら違ったのに...と不満が出てきてしまいます。
人間は一見自由に生まれて来ている様に見えて、本当はたくさんの足枷がついていると感じます。
その足枷がまさに自分自身なのですが。
しかし、森羅万象、宇宙規模で見てみると、その宿命も足枷すべてが、本来は塵の様に小さな事なのかもしれません。
魂を研磨していくものは経験しかありませんので、
足枷が重い人は、いずれ命が終わる頃、その経験した多くの学びが、あの世の手土産になります。もし自分を応援してくれる守護霊さんがいれば、かなり褒めてもらえる様に思います
とはいえ、今を生きている私達は、出来るだけ苦労やしんどい思いをしたくないのが本音ですよね。
あの世の事より、今をどうにかしたい、今を楽しく生きたいと。私も時々そういう思いに駆られます。
だって人間だもの
自身が持って生まれたものを生かすのか、生かさずに良くも悪くも、そのままで歩むのか。それも自分自身に掛かっていますが、あまり人生が辛いしんどいという思いが続くと、行動もなかなか起こせない状態になってしまいます。
自分を知るという事を早い段階で認識しておくべきではないかと思います。