来週から学期末試験ということで、生徒はいろいろ追い込みで忙しい。

どんな生徒もそれなりに一所懸命に勉強している姿はいいものである。

普段からもっと真剣だったらもちっと楽ができるはずなのだけれど、人間、追い込まれなくては力を発揮しないというのも真実で、今になって慌ててノートを整理したり、先生に聞きに行ったりしているのもいつもの光景だ。



4月10日の入学式からまだ80日ぐらいしか経っていない。

中学校までの悪癖をまだひきずっている生徒もいれば、この80日で考え方やら勉強への興味やらが変わってきている生徒もいるわけで、15~16歳の頃の若者の成長(変化か?)は雨後の竹の子のように早いし、よくわかる。



朝、生徒の顔と真正面に向き合う。

昨夜のドラマや今朝の母親との口げんかや放課後の部活の先輩のことで悩んでたりしているかもしれない一人一人の顔に、かすかなかげりや変化がないか観察する。

あいさつの口調ひとつ、顔の筋肉の緩み具合ひとつに今の心が現れる。

期末試験を控えた今でもまだ心が試験に向かっていない顔もある。



声を掛ける。

肩をポンとたたく。

質問に答えてあげて、次に自分で解けた生徒には「よっしゃ!」と気合を入れる。

つまづいている子には、もう一度教えて、さらにもう一度教える。

それでも、勉強はやはり一人で理解できるところまでいかなくてはいけないし、次に進むためにも「待つ限度」というものはある。



自発的な子もいれば、それができない子もいる。

できなくても、それは教室という世界では許される。

この子が社会に出るまでには時間がある。

少しずつ訓練する時間がある。

しかし、その子がその先にあるものを理解し、やがては自ら進まなくてはいけない。

そんなものだ。

だから、待つ。



待つ、ということが昔よりできるようになった。

年齢を重ねたせいでもあるだろう。

30代や40代の頃のように、せっかちでなくなったのは事実だ。

もちろん、待つといっても徒手空拳で待つわけではない。

刺激をそこここに撃ちながら、自ら進むように促す。



授業にメリハリをつける、学級活動に責任を持たせる。

そんな一般的な場面の一つ一つにいろんな刺激の仕方がある。

それがうまくツボに入った時の生徒の変化は、大きい。

それが教師をしている面白さかもしれない。



「待つ」と「刺激」。



教育の「運動」の一つの重要な形態であろうと思う。


今日もウィノローグに来ていただきありがとうございました。

今日はめずらしくまじめに書いてしまった。