月に一度の墓参り。

車で18分の郊外の墓地にある、我が家の墓を掃除してまいりました。

夏の厳しい日差しを受けながらも、きちんとしたたたずまいのお墓。

出来た時と同じように鈍い光沢を放って、入道雲を背負って夏の青い空の中に立っています。


墓石を拭き上げ、花立ての水を取り替え、花を取り替え、線香を上げる。

何も目新しい動きはないのですが、「ばあちゃん、来たよ」と声をかけながら合掌。

母が晩年にこの墓を建てた時、なんだかとても安心した表情をしていたことを思い出します。

死んで後に入るべき墓があるとないとでは、安心感にも大きな差があったはずです。

墓のことなど、まじめに考えたこともなかったのでその時の母の気持ちはわからずじまいでした。


しかし、こうやって墓参りをしていると、墓がなんのためにあるのか少しはわかる気がします。

ひとつは、死者をしのぶよすがであること。

ひとつは、その血筋の末裔として自分がいることを認識するため。

ひとつは、安住の地がここであることを認識するため。

いずれも、残された生者の思いではあります。


死者はなにも語らない。

しかし、墓参りという行為の中で生者は死者の声を甦らせ、己の生を見つめ直す。

その時、たしかに死者は生者に語りかけるのです。

墓の下には納骨堂があって、そこに古い死者の骨も新しい死者の骨もあります。

位牌が魂のみを宿すのに対して、お墓は骨という生きた証を物理的な存在として抱きかかえています。

その意味で、位牌より、より即物的ではあるのです。


そのお墓が、誰にも参られることなく雨風に打たれているとしたら、それは死者がとうに忘れられた存在としてあるという悲しい事実を表しているのです。

お墓に参り、お墓を磨くのは、より直接的に死者と関わっているのだと思わされます。

朝夕は位牌に手を合わせるだけですが、死者はやはり墓にいて、そこで生者を待っているという気がします。


墓がなんのためにあるのか、もうひとつのこたえ。

死者がそこに存在するため。


もうすぐお盆です。

迎え火を焚くのも、死者との語らいのためであります。


今日もウィノローグに来ていただきありがとうございました。

私が死んだら、お墓にルロワの赤ワインをかけてくれるとうれしいですね。