それまで何度も聴き飽きるぐらい聴いて、とうとう文字通り飽きてしまった曲というのがあると思うのです。
たとえば私ならブラームスの交響曲第1番とか、モーツァルトの交響曲第29番とか、あるいはアディエマスの曲とか。
かつてことあるごとに聴いていたから、もう今さら滅多なことでは聴こうともしない曲。
そんな、自分にとって聴き飽きた曲がふとしたことからそれまでとは違った表情で現れる、というような不思議がまれにあります。
あるいは、なかなか心にしみてこなかった曲が、これもちょっとしたきっかけですごく意味をもった曲として聴こえ始めるということも。
こんな経験は誰にでもあるんだろうと思います。
なぜそんなことが起こるんだろうと考えてみると、これはけっこう「出会い」が大きいという気がします。
「出会い」といってもその曲との出会いではなくて、その曲とまったく脈絡のないものとの「出会い」。
出会うものは、人であったり、風景であったり、本であったり、酒であったり、なにか大切なモノであったりします。
ただ単にその(人・風景・本・酒・モノ)と出会っただけでは「出会い」とは言えませんよね。
こちらの心の深くに自然と降りてくるもの、いわば砂地に水が染み込んでいくようにじんわりとひろがっていくもの。
また、時には激しく貫くもの。
その(人・風景・本・酒・モノ)の存在感が心に形づくられた時、はじめて「出会い」といえるのであろうと思います。
そして、そんな「出会い」が、聴き飽きた曲に新たな光を与えてくれる。
気の持ち方かもしれませんが、その「出会い」のもたらす新たな存在感が、曲の聴こえ方を変えてしまう。
それはある意味、幸せなことであるかもしれません。
聴き飽きた曲を、もう一度新鮮な感覚で聴けるということですから。
最近、聴き飽きていた曲がありました。
アディエマスの「世紀を超えて」。
かつて同名のNHKの番組の主題曲となった名曲。
これももう聴き飽きるぐらい聴いてきた曲。たぶん10年以上。
でも、このところこれがとても新鮮に聞こえるんですね。
不思議だったのでなぜかなと考えていたら、最近「出会い」があったことに気づいたのです。
ある(人・風景・本・酒・モノ)の存在感が、この曲の聴こえ方を新鮮にしてくれたのでしょう。
その存在感とこの曲とは、なんら直接的な関係はないのですが。
「出会い」が自分のフィーリングを変えてしまうということ。
だから存在感のある「出会い」だとも言えます。
そんな「出会い」とは、人生に何回ぐらいあるんだろうか。
今日もウィノローグに来ていただきありがとうございました。
ほぼ日手帳2011年版がようやく送ってきました。
さ、何を書き込んでいこうか。
考えながらニタニタしている自分がいます。(笑)