今日は1時間目は集会。

進路の話をすることになった。


言うことは一つである。


「勉強しろ!」


勉強しないで自分の生きる道が拓けるはずがない。



これは、人生を重ねた人なら誰でも自然に納得できる話であろう。


だが、ゆとり教育世代でどっぷり「個性、個性」とちやほやされて育ってきた今の高校生に、

強制的にも「勉強しろ」と言っても納得はしないというのが現状である。

そもそも、彼らが経てきた「勉強」なるものが、本当に「勉強」なのか怪しい。


たとえば、円周率を3.14ではなく「3」で習ってきた世代である。

精緻な論理を単純化すれば理解しやすいのではないかという阿呆な文部官僚の政策によって、

ものごとを正確に考える、詳細に考える、きちんと覚えるということを訓練されてきていないのである。

ある意味、かわいそうな世代である。

もちろん、これは国の方針がまちがっていたのだからであるし、彼らには責任がないのかもしれない。


しかし、だからといって、勉強をしないでもいい、とは口が裂けてもいえないことではないか。


勉強と一口に言っても、学校で習う公式やら法則やらと、いわゆる社会に出てから学ぶ「社会勉強」とを

別物と見て、「社会勉強こそ大事で、学校で習ったことなど社会では役に立たない」という暴論を吐く輩は

依然として多い。


だが、よく考えてみよう。

たしかに教科書に載っている法則は、社会生活を営む上で役には立たないだろう。

だが、法則を知り、法則の論理を理解するということは、この社会を論理的に分析し。

論理的に観察する「目」に通じるのである。


ものごとには決まりがあり、その決まりに沿って世の中は動いているのであって、その決まりの基本を

学ぶのが「学校の勉強」なのである。

その根本を誤解していないか。



勉強を軽んずる方向と、一方で個性を強調するあまり自分という人間を見失う方向に進んでいないだろうか。

勉強=学ぶことを忘れた人間たちと、終わりの無い「自分探し」をしている人間ばかりがあふれたら、

確実にこの国は滅びの方向に向かうのではないか。



「勉強しろ!」


この言葉は、今の教師が常に語り続けなければならない言葉だと思う。