「今日も新鮮!国語辞典」 3回目


「悪妻」

・第三者から「わるいつま」と目される女性。(当の夫は案外気にしないことが多い)⇔良妻(新明解)

・夫や家庭にとって悪い妻。⇔良妻。「悪妻は百(六十)年の不作」(例解)


ほほぉ~ 叫びう~む・・・・

悪妻といえば、たとえばモーツァルトの妻のコンスタンツェや夏目漱石の妻、鏡子が名を知られています。ソクラテスの妻は、たしかクサンティッペだったか。とにかく、夫を尻に敷いて、男としての夫を立てるでもなく、むしろ夫の仕事や出世を邪魔する存在というイメージが強いのではないでしょうか。


しかし、「新明解」は面白い。「(当の夫は案外気にしないことが多い)」とは、言い得て妙。そう、あくまでも「第三者から」見た評価であって、コンスタンツェがいたからモーツァルトは珠玉の数々を書けたのかもしれない。漱石も鏡子がいたから男と女を怜悧に描くことができたのではないか。つまり、悪妻がいて、その抜き差しならない夫婦というしがらみを乗り越えていくことが創作の新たな境地を切り開く原動力になるような気がしてなりません。

むしろ、良妻が献身的に尽くしてくれれば男は満ちたりて、創作活動への飢餓感をなくすのではないでしょうか。恋が成就した時の歌が凡庸なのに対して、失恋した時の歌ほど人々の心を捉えるものであるかのように、逆境こそ人の心を成長させるのですから。


でも、もっと面白いのは「例解」が載せている「悪妻は百(六十)年の不作」ということわざです。これは、「夫のためにならないような悪い妻を持つと、夫として一生不幸なだけでなく、子や孫にまで悪い影響が出る、というたとえ。「悪妻は一生の不作」ともいう。」(日本辞典)という意味です。


恐るべし、悪妻!子々孫々まで祟るのか。これは困ったこと。よほど妻を選ばないといけないな、男子たるもの。

うんうん。さっそく息子に教育しておこうビックリマーク


とはいえ、このことわざの持つ、男のエゴ丸出しの発想はやはり家父長制度ありし頃に生まれたものでしょう。今、本気でこんなこと言ったら、世の中の夫という夫が家を追い出されてしまいます。私もこれを書いていて恐ろしい、かみさんに見つかったら爆弾


ところが、このことわざに絶妙なオチをつけた文人がいます。

悪妻は百年の不作であるという。しかし、女性にとって悪夫は、百年の飢餓である」(菊池寛)

さもありなん。悪夫を持った妻ほど不幸なものはない。男の愛に飢えるかのような一生をおくらなければならないというわけでしょう。女の不幸です。

しかし、これもやはり家父長制度ありし頃の言葉でしょう。


今のご時世、悪夫を持つ妻も、悪妻をもつ夫も、がまんしてまで一生を添い遂げようとはしないでしょう。バツイチは今どき珍しくもなんともないし、バツニという人もいますからね。

ということは、悪妻が側にいる→悪妻と別れる→悪妻が側にいない→創作意欲を失う→独創性を失う→日本の国力が落ちる・・・・


そう、やはり悪妻は必要なのです(笑)