もしくは『鷺と雪』を読むにあたって。


「自分に何が出来る? そう自問した時、どんな人間よりも貧しい生活を送るのは、神様が自分に科す、至極、誠実な罰じゃないかな。 ーー俺はね、そういう神様となら、手を取り合って泣ける気がする」

「神っていうのは、限りなく無力で、哀れなんだろうな。だからこそ、その悲しみを知る目で、人を見つめる。 ーーそういう目で見つめられるから、人は救いを感じられるんじゃないかな」



今年の3月の未曾有の天災と、依然続く文字通り降り掛かる災厄に対して、
あまりに無感動で、見ているのに見えていない状態が未だ継続している自分を今更、
諌めるつもりもなし、出来もしないのですが、
既に"三月の水" に在ったアントニオ・カルロス・ジョビンの個人的な復興の予兆を知るに、
謳われる石ころや枝葉、時間や空間、絶望や歓喜、希望に遍在する神性を知るに、
そしてその神性とは多分、上に記した『破璃の天』にて、とある登場人物が
悲しいかな悲痛な叫びと穏やかな狂気を孕みながら口にする言葉に現れているのではないかと思ったら
涙が止まりませんでした。

私は詩も曲も作ることができないのですが、
その形容しがたい思いをこれらの素晴らしい曲や文章に託すことができるということに気づきました。

おそらく『鷺と雪』では、戦争という最大最悪の人災へ日本がなだれ込んでいく
その気配を前作よりも更に明確に切りとって描かれるのだと思います。
それは明白な悲劇でしょう。
ただ、私が1つ確信しているのは、北村薫という作家はきっと希望、
もしくはまだ起こっていない悲劇からの復興の予兆も同時に描いてくれるハズだ、ということ。
「本当にいいものは、太陽の方を向いている」と記すほどの作家が、そうしないわけがないからです。

私は、この震災に対して(そして16年前の震災に対して)語る言葉を持ちませんが、
その思いは数多の素晴らしい曲や詩、物語に託すことにします。