「蓋然性」という言葉が気になってgoogleで検索すると、「蓋然性」と「可能性」を 混同して使用しているメディアが多すぎると嘆くどこかの大学教授の コラムを見つけ、ふんふんと読んでいると要するに日本語の乱れについて憤っているわけで、話題は「蓋然性と可能性」から謙称へ移り、「拙著」「拙稿」が拙 い文章ではなく、拙なる私が書いた文章なんだと、ここまでは良い、「愚妻」をmy foolish wifeと訳すのはどういうわけだ、と激しい口吻で語られるのを読み、自分の中にハーテナーを伴う違和感を覚えたので記憶の手引きに従いその?を紐解いていく と、中坊時代の本棚に並んだ安能務訳「封神演義」の土行孫が鄧嬋玉と結婚した後、姜子牙に紹介せよと言われた土行孫は「師父、愚妻(ノイエン)です」と答 えたシーンに行き着いたと思えば、さらにその先に崑崙十二大師をはじめとする仙人たちがお互いを「賢兄」「賢弟」と呼ぶのは何故なのかと飛躍した思考が、結論は、つまり、「愚」と 「賢」は「私(の)(一人称)」と「あなた(の)(二人称)」にかかる謙称と敬称なのですね。なるほどね、たぶんそうだ。