平野啓一郎 『決壊』を読了。
常々、人間に最も必要なものは想像力であると信じてきたが、
現在自分が持ちうるその限界を試された作品だった。
ストーリーに触れるのはやめておきます。
帯に具体的過ぎるほど書いてあった気もするので(できるだけ見ないようにレジまで持っていった)
直近ならば、最近文庫化された東野圭吾 『さまよう刃』が描くジレンマに近いかと。
あるいは森達也 『死刑』、とまで言うとあまりに著者と読者の距離にひらきがあるか。
犯罪被害者、死刑制度、テロ。
『善』『愛』『幸福』とその対極にあるものたち。
これら得体の知れないものを人は『言葉』をもって定義し、定義した上で語る。
それが何かを語る。
語り続けなければ零れ落ちてしまい、もうその形を見せないのか、と不安になるから語る。
谷川俊太郎の「コップへの不可能な接近」が言葉の絵画的側面に対して二次元的であるとするならば
言葉を用いる必要性がウロボロスの如く言葉によって語られる『決壊』は三次元的だ。
作中の沢野兄弟がそれぞれの言葉で語り続けたそれぞれの幸不幸、
その語りにシンパシーを覚えるも覚えないも受け手次第だが(私は共感した)
読者としての義務(と変な言葉を使うなら)として、
著者がこの小説を書いた意図、なぜ今この小説が生まれたのか、
それをテメーの頭でしっかり考えて責任をもった『言葉』にしなければならない、と思った。
つまりこの文章はその前哨戦である。
数年前、この日記を書くよう薦めてくれた(唆した?)親友に今日からちょうど一ヶ月前男の子が誕生し
ずっと考えていたのだが、なぜ言葉に絶望しながらも、なぜまだ伝えようと渇望とするのか
答えはあるようで、まだ考えている。

