super furry animalsの6thのタイトルである「ファントム・パワー」という言葉が「見せかけの権力」と訳されるか「見えない権力」と訳されるかによって、一見して受ける印象は180度変わるだろう。
もちろん後者だということは、このバンドの性格を知ればすぐ納得できる。
しかし、ここで論じたいのはファーリーズが常に取り上げ続けている、第3世界の現状や、pax Americana・new colonialismについてではない。この日本におけるpowerについてだ。
以前、この日記で書いた神戸の裁判の第三回公判を傍聴してきた。
裁判官ってのはみんなああなのか?
被告側の弁護人と一緒になって、自分の娘が治らない傷を負った母親に対して「yes or no のそれだけでいい」「聞かれた事だけにさっさと答えろ」「この後も裁判が詰まってんだよ」といった言葉の数々。
母親にとっては、事件に関わってしまった娘たちと家族の無念を伝える唯一の機会である。証人としてではなく、意見陳述として己の心情を好きなだけ述べることは可能であるが、それでは裁判所の判断要素とはできない。反対尋問の辛さも覚悟して、己の訴えを裁判所に伝えようとしている人間に対する、片肘をついてのため息。
非人道的という言葉が一番しっくりきた。
まず裁判以前の問題として、公的な場で人の話を聞く態度ではない。
証人は尋問の開始時に「証言は全て裁判官の方を向いて答えるように」と言われた通り、裁判所に対し尋問に対する回答を述べているのである。
裁判という制度を少しでも詳しく知ったことのある人間(それは小学生でも)ならば「人が人を裁く」という根本の矛盾を疑問として持つのは当たり前だと思う。そして法学を志す人間はこの問題を抱えながらも先へ進まなければならない。ましてや法曹の人間とは一生の命題としなければならないのでは。
弁護士のネチネチ(実際に見てこうもこの擬音語が的を得ていることに驚いた)した尋問は、確かにひどかった。証人を小馬鹿にしたようなため息を交えながら揚げ足をとる。実際、傍聴席から怒声が飛んだ。その直後に裁判長の怒声が飛んだが。
しかしながら弁護士の最も優先すべき仕事とは、(当たり前ながら)被告に不利な証言をツブすこと。では裁判所の最も優先するべき仕事とは?
それはもちろん人権の保護に他ならない。事件の事務的処理ではない。片肘をついてあらぬ方を向きながら嘆息してみせることではない。無論、証人を威嚇する言葉を発することではない。
裁判所だけが市民を裁くことができるというのは誰もが知っている顕在化した権力である。「人権の保護」という目的のための「裁判」という手段。しかしながらパワーとはそれだけではなく、己の存在、一挙手一投足が「ファントム・パワー」さながらの直接的な影響力を持つことを彼らは知るべきだ。
彼らは特別な人間ではない。特別な権力を行使している機関に属しているというだけである。
彼らがそれを自覚できない、また自覚しても改悪してしまうようであるならば、世界がアメリカというパワーの誤った行使者を孕んでいるように、この国の市民生活の中枢をファーリーズが唱えているのと同種の「ファントム・パワー」が食い荒らすことになるだろう。
この国も、もう十分腐敗していることはあらゆる方面から知ることができるが、それでも法曹界という近しい世界に関しては、公判で「司法修習生」と銘打たれたプレートの席に座っていた人たちに意識を向けざるを得なかった。
もちろん後者だということは、このバンドの性格を知ればすぐ納得できる。
しかし、ここで論じたいのはファーリーズが常に取り上げ続けている、第3世界の現状や、pax Americana・new colonialismについてではない。この日本におけるpowerについてだ。
以前、この日記で書いた神戸の裁判の第三回公判を傍聴してきた。
裁判官ってのはみんなああなのか?
被告側の弁護人と一緒になって、自分の娘が治らない傷を負った母親に対して「yes or no のそれだけでいい」「聞かれた事だけにさっさと答えろ」「この後も裁判が詰まってんだよ」といった言葉の数々。
母親にとっては、事件に関わってしまった娘たちと家族の無念を伝える唯一の機会である。証人としてではなく、意見陳述として己の心情を好きなだけ述べることは可能であるが、それでは裁判所の判断要素とはできない。反対尋問の辛さも覚悟して、己の訴えを裁判所に伝えようとしている人間に対する、片肘をついてのため息。
非人道的という言葉が一番しっくりきた。
まず裁判以前の問題として、公的な場で人の話を聞く態度ではない。
証人は尋問の開始時に「証言は全て裁判官の方を向いて答えるように」と言われた通り、裁判所に対し尋問に対する回答を述べているのである。
裁判という制度を少しでも詳しく知ったことのある人間(それは小学生でも)ならば「人が人を裁く」という根本の矛盾を疑問として持つのは当たり前だと思う。そして法学を志す人間はこの問題を抱えながらも先へ進まなければならない。ましてや法曹の人間とは一生の命題としなければならないのでは。
弁護士のネチネチ(実際に見てこうもこの擬音語が的を得ていることに驚いた)した尋問は、確かにひどかった。証人を小馬鹿にしたようなため息を交えながら揚げ足をとる。実際、傍聴席から怒声が飛んだ。その直後に裁判長の怒声が飛んだが。
しかしながら弁護士の最も優先すべき仕事とは、(当たり前ながら)被告に不利な証言をツブすこと。では裁判所の最も優先するべき仕事とは?
それはもちろん人権の保護に他ならない。事件の事務的処理ではない。片肘をついてあらぬ方を向きながら嘆息してみせることではない。無論、証人を威嚇する言葉を発することではない。
裁判所だけが市民を裁くことができるというのは誰もが知っている顕在化した権力である。「人権の保護」という目的のための「裁判」という手段。しかしながらパワーとはそれだけではなく、己の存在、一挙手一投足が「ファントム・パワー」さながらの直接的な影響力を持つことを彼らは知るべきだ。
彼らは特別な人間ではない。特別な権力を行使している機関に属しているというだけである。
彼らがそれを自覚できない、また自覚しても改悪してしまうようであるならば、世界がアメリカというパワーの誤った行使者を孕んでいるように、この国の市民生活の中枢をファーリーズが唱えているのと同種の「ファントム・パワー」が食い荒らすことになるだろう。
この国も、もう十分腐敗していることはあらゆる方面から知ることができるが、それでも法曹界という近しい世界に関しては、公判で「司法修習生」と銘打たれたプレートの席に座っていた人たちに意識を向けざるを得なかった。