俺はどう行くか?

佐賀にある「一歩の会」という犯罪被害者の方たちの自助グループを訪ねた。

息子さんを通りすがりに殴り殺された親御さんや、まだ10歳だった娘さんをクレーン車に轢き殺された親御さん。後者のご家族のお父さんがこう話された。「(あなたたちも)この部屋を出た瞬間には私たちが話した娘のこと、事故のことは忘れてしまうでしょう」

帰りの車内、緊張が切れてケツメイシなんかがかかり一斉に皆ワイワイし始めると「忘れている」。

自己弁護するわけでもなく、その「忘れてしまう」が悪いことだ、不遜なことだとは言えない。不遜なことだ、なんて言うことの方がよっぽど不遜なことだと思う。

一歩の会と連動して、今回窓口になって頂いた佐賀ボイスという被害者支援ネットワークの方たちに、前々の大阪・神戸から通して抱いていた「被害者の方々・遺族の方々を目の前にして、俺がやってることはとんでもなく失礼なことではないのか」という己の疑問を述べた。

この疑問に対する答えではないが、これを受けて話して頂いたことは「私もそう常にそう思っている」ということだった。NPO法人に認定され、自分たちの活動に物質的な成果を求められる潮流、論文などの研究活動へのフィードバックへの恐れ(最初から研究を目的とするものは言語道断、結果的に論文などの体裁をとってしまうことまで含める)。そういうものを常に自制している、と。

無論、本来ならば事件とは無関係な自分が、彼らの話を聞き精神的に参ってしまい会合を後にしても、家に帰れば家族がいて、楽しい会話があって、お笑いをやっているテレビがあって・・・ということを繰り返すことに疑問を感じないわけは無い、とも。

なぜこのような会合が続けられるのか、存在しているのか、成果はあるのかなんて疑問に解答は無く、特に成果などは最初から認識の範疇に無い問題なんだと思う。

「必要だから」。敢て答えを求めるならば恐らくこうではないだろうか。

俺はどう行くか?

「必要だから」己の活動の成果を求めない人々を目の当たりにして、
俺はどう行くか。