夜と霧
こんにちは。複雑系自営業者のコンプレクソロジストです。ごきげんいかが?
写真は昨日の記事 でお話いたしましたトイレのドアノブです。
そう、彼女がしたたか頭を打ち付けた例のやつが、これです。
で、いつも思うのですが、どうにもこれが私には・・・
これに見えるんですよね。(`Θ´)コンニチハコンニチハ♪
いや、ドアの鍵のところが・・・
まぁそんなことはどうでもいいのです。
以前eiさん から教えていただいた
- ヴィクトール・E・フランクル, 池田 香代子
- 夜と霧 新版
を読み終わりました。
読んだのはもうだいぶ前のことで、自分なりになんらかの感想文を書きたいとは思っていたんですが、なかなか・・・
なんていうか、なにを書いたらいいのかよく分からなかったんです。
ただこのまま記憶が風化するのはアレですので、やはり何か書いておこうと思って(`Θ´)
著者はナチスドイツの強制収容所に入れられて生還した体験を持つ心理学者です。
彼はこの本の中で、なるべく心理学者としての視点から収容所でどんな出来事が起こったのかを解説しています。
体験談・・というより、彼の特別な職業に因った解説・・・私にはそう感じられる内容でした。
読み終わって一番最初に感じたのは
こんな壮絶な体験を美化しないでよく書けるもんだ!
時として悲惨な体験は、語り手によって美化されて・・・もっと言うと都合の良いところばっかりピックアップされ、そうじゃないところは本人も忘れてしまって、とってもいびつな形で伝えられるものです。
人間は考えることによって記憶を定着させるのだそうで、その考えるプロセスで自分に不利な点を排除していく性質を持っていると思います。
そして単純な事実をドラマに仕立て上げ、美しくしてしまうんです。
著者がなるべく客観的に事実を語ろうとしているのはよく分かりました。
時折見せる主観的な意見は「美化したい」という欲求を強く感じさせますが、それをなるべく制御して・・・ものすごく自分を制御して書かれているとても勇敢な本です。
正直言うて、私はナチス収容所のドラマにはあまり興味がありません。
しかし「本当はなにが起こったのか」を語ってくれるのであれば、聞かせて欲しい。
著者は私のそうした身勝手な要求に応えてくれました。
人々が事実を美化するのは仕方がないし、多くの場合は罪のない行為だと思います。
ただ、話を聞くがわの人間はそれが美化されているものだということをちゃんと認識しないと、余分に片方の味方をしてしまったり、過剰に相手の都合を斟酌(しんしゃく)してしまって事実を見誤ることがあります。
私はドキュメンタリーでもなんでも、ドラマ化されてしまったものは
2割引
で見るように心がけています。
都合良く描かれている前提で、その分をおおむね経験から2割として受けとめるんです。
それをしないと、私は相手を受け容れることに手加減を加えてしまう。
必要以上に「よしよし」してしまうわけです。
本当にその人の立場になるために、割り引いて受けとめることは私にとって必要不可欠です。
その点、この夜と霧は私がたいして割引をしなくてもありのままが伝わるように、著者のものすごいチャレンジが施されていると感じました。
私が強制収容所にもし入れられていたとしても、私はきっと生き延びられる!
そう思うことができました。
収容された彼らが特別なんじゃありません。私たちはそれに絶えうる構造を持っているのだと感じました。
また、同時に私がナチスの一員だったとしたら被収容者を手ひどく扱うだろうことも、残念ですが確信を持つに至りました。
ところで、人間が生きていく上でどうしても必要なものがあるとすると、それはもしかしたら希望かもしれません。
ある被収容者は収容所から解放される日について、お告げのようなものを夢に見ました。
夢の声は具体的な日づけをあげて、その日に収容生活が終わるのだと言ったんだそうです。
この夢を見た人はそのことを正夢だと信じていましたが、お告げの日が近づいても収容生活は変わらず希望は徐々に失われます。
そして、ちょうどお告げの日に彼は危篤状態となり、翌日チフスで亡くなったのだそうです。
またクリスマスの次の一週間では、沢山の方が亡くなったそうですが、著者はこのことを「クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていた」と説明しています。
もしそうだとしたら、絶望は私たちの命を奪うものかもしれない。
逆に言うと、私たちは希望があるから生きていけるのかもしれません。
言うまでもなく収容所という環境は一種の極限状態であろうと思います。
被収容者たちが一つ一つの感情を徐々に失っていく様が描かれていますが、こうした現象は人間が持っている適応能力に因るものではないでしょうか。
つくづく、私たちはいかなる環境にも耐えうる素材なのだと感じます。やっぱ38億年もかけて進化しているだけのことはあります。
環境に順応して生きながらえる機能と同時に、私たちは環境に抵抗する精神力も持ち合わせていますが、収容所を実際に体験していない人が
「俺はあそこに入っても自分を失わずにいられる!」
って言ったとしても、信じる人は誰もいないでしょう。
なぜなら、私たちがそうした例を知らないからだと思います。
人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないのか、このような影響には屈するしかないのか、収容所を支配していた生存「状況では、ほかにどうしようもなかったのか」と。
こうした疑問にたいしては、経験をふまえ、また理論にてらして答える用意がある。経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。
その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。
人間ってほんとタフなんですね。
作者が語るこの数行は私にとって未知の世界の出来事ですが、同時に希望を抱かせてくれる文節です。
実際にそれが出来るかどうかは分からないけど、私には自分を失わない可能性が残されているんだな・・・
それにしても、
このことを認めて、語る勇気ってのはどれほどのものだろう!!
もし私が動物としての機能を発揮して収容所に適応して生きながらえたとしても、英雄的な人達が「確かにいた」ということを認めるために、どのくらいの勇気を要求されるでしょうか。
きっと認めたくないと思うだろうなぁ・・・
だって自己否定に繋がるし。(`Θ´)ピヨ
こうした事実をちゃんと冷静に伝えてくれる作者の勇気に脱帽です。
eiさんと同じく、私にとっても「ああ、読んで良かった」と思える本でした。
今日は導入部と本題に落差がありすぎてごめん(`Θ´)
