私にとっての分かち合う技術 その2 | 複雑系レトリック~自営業白書~

私にとっての分かち合う技術 その2

労働2

こんにちは。複雑系自営業者のコンプレクソロジストです。ごきげんいかが?



本日は昨日 の続きで私にとっての「分かち合う技術」についてお話させていただきます。


技術なんていうと非常に偉そうですが、単純に今の私が使っている方法論をご紹介したいという程度です。




昨日お話した私なりの結論は、



・真の客観は存在しない。


・第三者の意見はそれ相応の重さで取り扱えばいい。



この二点に集約されます。



以前の私は客観的な視点を重視したいと思っていたのですが、それだと当事者間の歩み寄りをする上でははなかなか解決には繋がりませんでした。


私の場合は特に客観を振りかざすような行為で相手と対峙してしまうことが多かったんですね。


例えば「だけど一般的には」とか「あなたはそう言うけど客観的にはさ」とか・・・こうした言葉は相手の方向性を修正しようという試みですが、建設的な場合ならまだしも私は利害の相反でこのような論理を使っていました。



実はこれを行うと、相手と自分の距離はますます離れていく場合が多いのです。




私は必ずしも誰とでも仲良くしようとは思っていません。


しかし自分の好きな人を「一般的」だとか「客観的」という言葉で傷つけたくない・・・今はそう思っています。




では今の私がどのようにして利害の不一致を解決しているかというと、それは


分かち合い


です。



お互い理解し合う・・というのとは私の中では微妙にニュアンスが違っていますが、相手の事情をよく把握するという意味においては似たようなものです。


そしてもう一つとても重要なのが、こちらの事情を相手にしっかりと伝えるということ



相手のことばかり考えていては分かち合うことになりません。私はあくまでも分け合うことを大事にしています。








さきほど「理解し合う」と「分かち合う」はニュアンスが異なると申し上げました。



理解というのはあくまでも自分を中心にした行為だと思っています。



あ、ちなみに私は自己中心的であることを悪いことだと思いません。

だって世の中、自分を中心にしないでどこを中心にするんだ?みたいな(笑


グリニッジ中心主義とか仰る方がいたら恐いです。(`Θ´)



自分を中心にして理解しあうことは可能だとしても、分かち合うためにはそれでは少し足りません




私にとっての分かち合うという言葉の意味は、一瞬だけものごとの中心を相手に移すことを言います。


この一瞬というのがミソです。







昨日に引き続き話が漠然としてきたので具体的な例で説明させていただくと・・・





 現在トイレの中で踏ん張っている(10分経過)


 今すぐトイレに行かなければヤバイ(リーチ)


コピペ(笑



ちなみに昨日は「母 それを見ている」と最後に書いていましたが、当事者間での問題解決を題材としていますので母は登場する必要がありません。




さて、は当然ながらトイレのドアをどんどんと叩きます。非常に深刻な事態ですので。


この時のの行動は極めて自分を中心に据えたものだと思います。ああああああ・・うまれる・・・・うまれる・・・


「はやく出てきやがれこの長グソオヤジ!!」


このくらい言うたとしても不思議ではありません。




どんなに優しい人であったとしても、この瞬間に修羅の世界に転落してしまうのは無理からぬこと。

鬼の形相となりすべての目に入るものはうんこと化します。



恐らくこの状況をリアルに想像できない人はいないのではないでしょうか。誰しもトイレに困った経験をお持ちだと思います。





一方でと比較してわりと優位で余裕のある立場であることは明確でしょう。


ところがにもの都合があり、タイミングによっては中断が非常に困難であることも事実です。

出てこいと言われたからといって出てこれるものではない・・・まだ出てきてないから出てこれない・・・これもまた誰もがリアルに想像できるのではないでしょうか。



この両者は極めて切迫した都合を抱えており、おいそれと相手の言う通りにすることは出来ません。


この状況で相手のことを優先しすぎると災害が起こります。







じゃあ、もし私だったらどうするか。



もし私が父であったとしたら、恐らく


「どのくらい待てる?」


ってまず聞くと思います。まずは基本的な相手の状況を理解することから始めます。


そして十分に状況を把握したら、今度は私の抱えている状況を相手に理解してもらいます



お互いの状況を理解し合った上で、ここから分かち合いの作業が始まります。




ものごとの中心を子(相手)に移動してみるんです。




「相手がどう思っているかな、どう感じているかな」というのとは違います。そうではなくて


「私だったらどう感じるかな」


という方向で考えてみるんです。



考えるという言葉には語弊がある・・・感じるという言葉が適切です。








私は人間のちょっとした表情を読み取るのが結構得意です。


少しの動作が多くを語る場合があるということは、とりたてて言うまでもありません。




ではあなたが相手の表情を読み取るときに「この人いったい何を感じているんだろう?」っていう風に考えるでしょうか?



恐らくそうではないと思います。


その方法はあくまでも自分を中心としたものであって、これも大事だと思うけど、それだけではなかなか本当のところに気づくことは出来ないと思います。




そうではなくて私の場合、相手の表情を読み取るときに


私がこの表情をする瞬間ってどんな時だろう


という方向で感じているのです。




「自分だったら」と感じることが、私が考える「分かち合い」の第一歩なんです。





ちょっとした相手の変化を敏感に察知するために、私たちは日常的に分かち合うという行動をとっています。


そうした能力を使うことによって相手になりきり、相手の事情を一旦自分のものとする・・・・


そして相手にも同じように、私がどんな状況であるかを感じて貰う努力をします。





有り体に言うと、これは「感情移入」という言葉に近いだろうと思うんですよね。


こう言われてどのくらい悲しいかな、自分だったらどんなに嬉しいかな、辛いかな・・・





相手をよく知っていれば、その人の性質に従って特定の感情をブーストしたり減らしたりも出来ます。


例えば、この人は恐がりだから私が感じているよりもっと恐いだろうな・・とか、この人は心配性だから私が感じている以上にもっともっと心配だろうな・・とか。



相手になりきることも相手の性質を考慮することも、旺盛なイマジネーションを求められる大変な作業です。





自分を中心に物を考えるのは悪いことではないと思いますが、お互いが気持ちよく歩み寄ろうとした場合は想像力を働かせて


一瞬だけ相手の立場になりきる


ことが大事だと考えています。






これをしないと簡単に人を傷つけてしまったり、逆に相手のことを異常に甘やかしたりしてしまうのだと思うんです。


(特にこの「甘やかす」という点においては、感情移入に手加減を加えているせいだと思っていますが、これはまた別の機会にお話させてください)






もしも相手になりきることが出来なかったとしたら、それはもしかすると情報が不足しているのかもしれません。


「この人がどうしてそういうことを言っているのか」が感覚的に納得できない場合、私は沢山質問をします。






以前は「あなたはそう言うけど客観的にはさ」という言葉を多く使っていた私ですが、こういうことを考えてからは


「じゃあ、あなたはどうしたいの?」


っていう言葉をよく使うようになりました。


人から見てどうか?という話ではなくて、相手のことにちゃんと興味を持てるようになったのだと思います。






人間はたった二時間の映画で泣くことが出来るんです。


十分な情報が得られさえすれば、目の前の相手がどんな風に感じているか分からないはずはありません。




そんなわけで、私は相手と利害が相反したときは特に、分かち合うことを大切にしたいと思っています。






とか言っていますが・・・自分が完璧にそれを出来ているかどうかと言われると、決してそんなことはありません。


気のゆるみが自分の好きな人を傷つけてしまう場合が多々あります。また、そのことに私が気づいていない場合もあると思います。




また


対面>電話>文字(ブログとかメール)


という順番で情報量は格段に減っていきますので、特にメールやブログのコミュニケーションは私にとって課題山積の世界・・・


だからこそ面白いっていう面もあります(`Θ´)