西郷丼をみて。前に書いたこととだぶると思うがテキトー。井伊の直虎は平和な日本を徳川に託し、一応そうなったが、アメリカなどに揺さぶりをかけられ、島津の尊皇攘夷と大老井伊直弼開国に二分される。どちらも日本のことを考えてのことと思うが。後明治政府は文明開化となる。聞く所によると関西では肉丼といえば牛肉丼だが関東では豚丼で以前は開化丼といわれたらしい。常識化していると思うが、東大寺(大仏さんのある)を建てた(勿論宮大工の人だが)聖武天皇が生類憐れみの令とか言う私から見れば偽善的な取り決めをつくって宮中では㈣つ足は食べないことにして、日本人は天皇に右にならえ的なところがあるから、建前は国民はそうした。もちろんイノシシは山鯨(当時は鯨は魚と思っていた。ほ乳類だが。サメは魚類)、ウサギは1羽2羽と数えて鳥だと言って食べていた。でなきゃ力がでないよぉ~。戻ると親父によると、ひい爺さんは桜田門外の変のとき居合わせて、井伊の武将が介錯(かいしゃく)頼む~という悲痛な声で叫んでいるのを聞いて、武士の情けとしてはそうしたいが、万一手を出して幕府のおとがめがあってはいけないと実行しなかったと言うことである。致命傷を負うと大変苦しいらしく、クビをチョンしてもらって殺して貰いたいということだ。

いとこの話によると、おやじの兄の跡取りの処に司馬遼太郎から問い合わせがあり、お爺さんの処に西郷隆盛が西南の役のとき相談に来たらしく、その折りの書状を見せたらしい。その当時はおじいさんは神戸の祇園神社の神主(宮司というのは位みたいなの)で1の宮~7の宮だかを見ていたらしい。その前は御影小学校の校長で極若い頃にやめたらしい。ひいお爺さんは心情勤王だが、幕府に恩があり(どの代だかしらないが東京足立区から兵庫県の村岡の山名藩という一万石のちっぽけな大名の城代家老をしていた。山名氏はあちこちの大名、足立氏もあちこちの大名だったりするが、当家の家紋(五七の桐の紋を笹で受けている。言い伝えでは後醍醐天皇の建武の中興の折り真っ先にかけつけ桐の紋を下賜されたが恐れ多いので笹で受けたという)からすると特殊な足立家で山名より格上。名門の堀氏(南朝の人家のような宮居を提供した)と親戚。足立区(みやぞんの出身地)では一番位牌みたいなのがあがめ奉られているらしい。ちなみに菊花紋は中国由来、桐は大分あたりに原生している。どうでもええことなのでテキトーにしか聞いていないが。江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の合意でなされたが、その橋渡しをしたのが無刀流達人山岡鉄舟。鉄舟>海舟>泥舟を三舟という。鉄舟は無刀流を会得するまでは師匠にどうしても勝てない。師匠の顔が常に頭を離れない時期が長く続いて、ある日それがパット消えた。そして師匠と対峙すると、でかしたぞ、それが奥義だ、と師匠は竹刀を捨てた。この師匠は奥義は何かは分かるが奥義を会得していなかった。ひい爺さんは北辰一刀流の目録(免許皆伝の一つ手前)であったらしい。体育会系ではなかったのかどうか、しかし相当いかつい顔のひとだったらしい。出石小町というお嫁さんを貰って、その子のお爺さんは確かに細面のハンサムな優しげな写真を見た記憶がある。お爺さんのお嫁さんは醤油酒屋の娘で番頭が大金を持ち逃げしたとかで、散々な状態で、おまけに美人とはどう見ても言えない。子供の時一時同居していた。お爺さんは父方も母方もハンサムで勉強好きなのだが。。。

戻るが司馬遼太郎は何かを書こうとしていたのかと思うが、その書状は親父の弟の子供、つまり私より2つ上のいとこのところにあるとおもう。そういうものは公的な資料館に買って貰って誰でも見られるようにしてもらうといいのだが。内容はしらないし、何故おじいさんの処に相談に来たかしらない。西郷丼でそのうちわかるのだろうか。まったくどうでもいい話なので、岸田さん応援を追加して。。。数学がなつかしくなってきたので、早いとこ論文(I)を完成したい。飽きっぽくて浮気性で勃起体質だが、色んな処を遍歴してはいるが、一度好きになったものは記憶の底に刻み込んでいる天性のど変人でどスケベなのだ。何処が悪い?